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放課後の教室は、ほとんどの机が空っぽだった。西日が差し込み、光と影の境目にひとりの女子が立っていた。
鞄を抱えたまま、動けずにいる。
遥は黒板の前でプリントをまとめながら、その様子に気づいた。
「……帰らないの?」
声をかけると、彼女は小さく首を振った。
「ちょっと、話してもいいですか」
その言い方が、どこか震えていた。
二人は窓際の机に腰を下ろした。
夕方の風がカーテンを揺らしている。
沈黙のあと、彼女はぽつりと言った。
「朝、学校に行く支度をするたびに、吐き気がするんです。……理由は、わかんないんですけど」
遥は目を伏せた。
机の上を指でなぞりながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「わかんない理由ってさ……いちばん、本当なんだと思う」
彼女の目が、かすかに揺れた。
「無理して笑ってると、体が先に悲鳴を上げる。
“嫌だ”って言葉にできないまま、
心が勝手に体を止めようとするんだと思う」
彼女は、俯いたまま小さく頷いた。
「でも、周りには“サボりたいだけ”って思われそうで。
親にも言えなくて……自分でもよくわからないんです」
「それでいいよ」
遥の声は、驚くほど静かだった。
「理由がないまま苦しいって、ちゃんと“本物”だから。
無理に説明しなくていい。
ただ、“もう限界だよ”って、体が教えてくれてるだけ」
窓の外では、グラウンドを走る部活の声が響いている。
それが遠くの世界の音みたいに、ぼんやりと聞こえた。
「俺もさ、中学のとき、朝になると息が詰まる感じがしてた。
電車に乗るだけで、胸がギュッてして。
なんでか分かんないけど、涙が出そうになってた」
彼女が顔を上げた。
「……遥くんも?」
「うん。
あのときの俺は、ただ“行けない自分”を責めてた。
でも今思えば、“ちゃんと自分を守ってた”んだと思う。
壊れる前に、体がブレーキかけてくれてた」
沈黙が落ちる。
放課後の空気は冷たく、でもどこかやわらかかった。
「朝が怖い日があるのは、弱いからじゃないよ。 それでも立とうとする人のほうが、ずっと強い」
彼女は、涙をこらえるように唇を噛んでいた。
遥はそっと、彼女の前にプリントを差し出す。
「……これ、今日の授業のまとめ。
来られなかった日があっても、大丈夫だよ。
“次”に戻れるように、ここは残しておくから」
彼女は小さく息を吸い、
「ありがとうございます」と言った。
その声が、夕焼けの光の中に溶けていった。
遥は窓の外を見つめたまま、
誰にともなく、心の中で呟いた。
――明日も行けなくてもいい。
それでも、いつか“行きたい”と思える日が来るように。