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薄いカーテン越しに夕方の光が差し込み、相談室の空気を赤く染めていた。 扉を開けて入ってきた少年は、鞄を乱暴に床に置くと、深く椅子に腰を落とした。肩が上下に揺れているのは、家からここまで走ってきたせいか、それとも別の理由か。
「……帰りたくない」
彼はうつむいたまま、ぽつりとつぶやいた。
遥は少し間を置いてから、机の端に肘をついた。
「家で、何があるの?」
少年はしばらく黙っていたが、やがて息を吐くように答えた。
「親、ずっと喧嘩してる。毎日。叫び声と、物投げる音と……。俺、部屋にいても全部聞こえる」
遥は目を伏せる。その音が、自分の記憶に重なる。
皿の割れる音。怒鳴り声。自分の名前が罵倒の中に混ざるあの感覚。
「帰ってきたら“おかえり”じゃなくて、“どこほっつき歩いてた”って怒鳴られる。……俺、家にいる意味あるのかなって思う」
少年の声は震えていた。
遥は指を組んだまま、小さくうなずく。
「……俺も帰りたくなかったよ。玄関のドア開けるとき、心臓が止まるくらい怖かった。何されるかわかんないから」
少年が顔を上げる。その目に驚きと、少しの安堵が浮かんでいた。
「俺、学校も嫌だけど……家はもっと嫌なんだ」
「わかる」
遥は即答した。
「俺も学校は地獄だけど、家は“逃げ場のない地獄”だった。どっちにいても呼吸できなかった」
少年は小さく笑った。乾いた、壊れそうな笑いだった。
「……じゃあ、どうしてた?」
遥は視線を宙に漂わせ、少し考えてから答える。
「時間つぶしてた。コンビニの駐車場とか、公園とか。寒くてもベンチで寝てたほうがマシだった。……でも結局、帰らなきゃいけないんだよな」
少年はうなずき、膝に顔を埋める。
「帰らなきゃいけない家って、なんで“家”なんだろうな」
「……さあな」
遥は少し笑った。
「でも、家が“安心できる場所”だなんて、誰が決めたんだろうな。俺にとっては、ただの牢屋だった」
しばらく、沈黙が流れる。夕日が傾き、影が長く伸びていく。
遥はふっと声を低くして言った。
「……帰りたくないって思うのは、弱いからじゃないよ。生きたいからなんだ。壊されないように、本能が“拒否”してるだけ」
少年は顔を上げる。その瞳の奥に、少しだけ光が差したように見えた。
「……そうなのかな」
「そうだよ」
遥は断言した。
「俺もまだ帰らなきゃいけないけど……それでも、生き延びてやろうって思ってる」
扉の向こうに夜の気配が忍び寄る。
少年は鞄を背負い、重い足取りで立ち上がった。
「……ありがとう。帰りたくないけど、帰らなきゃだな」
遥は黙ってうなずいた。
――帰りたくない場所に帰る。それでも生きてる。それだけで、もう十分戦ってる。