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けれども、かえって火に油をそそいだようで、紗英子さんはさらに目を剥いて冷ややかな笑みを浮かべた。
「先生だって人間よ。つい若い女にたぶらかされることだってあるわ。言ったでしょう、先生は世界を股にかける方だって。そんな方の伴侶だってそれ相応の人物じゃないといけないのはあなただって解るでしょう? あなた、自分が先生のそんな存在になれると本気で思っているの?」
ずき、と私の胸が疼く。
気にかけていることを、言われてしまった。
そんな私の反応に紗英子さんはめざとく気付いたようで、じりじりといたぶるように続ける。
「じゃああなた、先生がどういう研究をされて、どういう成果を発表されているか、ちゃんと理解できている?」
そう詰められるとなにも言えない。
聡一朗さんの研究についてはちゃんと理解しておく必要があると思っているけれど、今日の講義だってちんぷんかんぷんだった。
「たしかに先生はあなたを気に入ったかもしれないわ。じゃあ疑問なんだけれど、なぜ結婚したことをオープンにしないの? 必要最低限な関係者にしか言わずにいるのよ? 周りから、あなたの学歴や若さをとやかく言われるのを解かっているからじゃないの?」
聡一朗さんは今や著名人と言ってもいい存在だけれども、結婚については公表していなかった。
もちろん、プライベートや仕事の関連者には報せている。
でも、SNSやメディア上での発表を控えたのは、世間からの煩わしい反響を厭ってのことだった。
もし、私の経歴や若さのせいで、とやかく詮索されることを聡一朗さんが気にしているとしたら……。
「あなた、世界レベルの大学教授の妻がどれほど重要ある立場なのか、ちゃんと理解している? あなた程度の学歴や人生経験で務まると思っている?」
「……」
「安っぽい感情だけでこなせるほど、大学教授の妻は楽じゃないのよ。すぐに先生も目を覚ますに違いないわ。まぁ、あなたは捨てられるその時まで、せいぜいお勉強をがんばるといいわ」
弱り切った最後を仕留めるかのように吐き捨てると、押し黙ってなにも言えなくなってしまった私を残して紗英子さんはヒールを鳴らして出て行った。
図書館に行く前の上機嫌から一転、すっかり意気消沈しながら帰宅した。
紗英子さんの言葉がずっと頭の中で繰り返されていた。
聡一朗さんは私を選んでくれた。
それは単にタイミングが合っただけに過ぎない。
要求していた時に都合よく、そこそこ条件の合う私が現れた。それだけに過ぎないのだ。
しょせんは契約結婚。
他に条件がいい人がいたら、私なんか捨てられてもおかしくはない……。
……ううん、聡一朗さんはそんな冷たい人じゃないはず……。
そんな不安と葛藤がぐるぐるして、気が滅入っていた。
聡一朗さんは今夜も帰りが遅い。
広すぎる部屋は不安を増長させるだけ。
窓から見える煌びやかな夜景も、かえって寂しさを感じさせるだけだった。
簡単に夕食をすませた後もなんだか落ち着かなかったので、気分転換に部屋の掃除をすることにした。
ひととおりフローリングを磨き、最後に残ったのは聡一朗さんの仕事部屋だった。
入ることは禁止されていなかったけれども、なんとなく気が引けてあまり足を踏み入れたことはない。
広い部屋。
そこにベッドと、ちょっとした家具と、研究用の書籍が詰まった本棚と、OA機器だけが並んでいる。
大学の研究室とあまり変わらない印象だ。
けれども唯一、異色を放って部屋に置かれていたものがあった。
亡くなったお姉さんのご仏壇だ。
遺影にはやわらかく微笑んでいる色白の女性が映っていた。
聡一朗さんのお姉さんらしく、上品で聡明な印象を与える綺麗な方だった。
きっとすごくやさしくい女性だったんだろうな、と初めて見た時思った。
そして、こんな素敵な肉親を早くに亡くした聡一朗さんの悲しみを思うと、辛くも感じた。
一度でいいから、お会いしてみたかったなと思う。
私と同じように、外国の絵本が好きだったというお姉さん。
きっと親族という関係を超えて仲良くさせてもらえたんじゃないかと思う。
「……あら?」
遺影から視線をはずしたその時、ふと本棚に気になるものを見つけて、思わず私はそれを手に取った。
やっぱりそうだ。外国製の絵本だ。
きっとお姉さんの遺品なのだろう。