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夜の練習室は、静寂という名の圧迫感で満ちていた。
翔は椅子に座り、肩を小さく震わせる。指先は鍵盤に触れても、音は鳴らず、ただ虚空に響くかのように空気を震わせる。
「……昴の曲が、聞こえる」
低く、かすれた声が漏れた。
自分の耳からではなく、頭の奥から直接響く旋律。
指を動かせば、微かにその幻の音と重なり、混乱が増す。
昴は自宅で譜面に向かっていたが、手が止まった。
夢の中で、翔が奏でるはずの旋律が、鳴り止まず、心を侵食していたのだ。
目を閉じても、耳の奥で響く音。
指先が震え、胸が押し潰されそうになる。
――翔が……俺の曲に、囚われている。
その言葉が頭を駆け抜け、昴は無意識に声を上げた。
「止まれ……!」
だが声に出しても、旋律は消えない。
翔は背を丸め、耳を押さえる。
「……もう、音が……止まらない……」
鍵盤に触れても、幻の旋律が指先に絡みつき、体を揺さぶる。
頭の中で昴の曲が重なり合い、現実と幻覚の境界が曖昧になる。
息が詰まり、心臓が早鐘のように打つ。
昴もまた、夜明け前の暗闇で目を覚ました。
夢にまで翔の指が入り込み、曲が鳴り続ける。
目を閉じても逃げ場はなく、胸の奥が痛く、呼吸が浅くなる。
――二人の音が、俺を侵食していく。
翌日、練習室で二人は向かい合ったまま、言葉を交わさない。
指先が鍵盤に触れるたび、互いの存在が音となり、微かに震える空気を生む。
沈黙の中で、互いの幻聴に呼応するように音が揺れる。
「昴……」
翔の声が、かすれ、震え、時に途切れる。
その声に昴は反応せざるを得ず、胸が締め付けられる。
互いに逃げ場のない状態で、音が心を削り合う。
昼も夜も、旋律は途切れず、二人の心を侵食する。
昴は譜面に向かうたび、指先が痛くなるのを感じ、翔の耳元で囁くように声をかける。
「もう、無理しないで……」
しかし、翔は首を振り、幻聴の中で微かに笑う。
「俺は……お前の音なしじゃ、弾けない……」
この依存が愛であることは理解している。
だが、それと同時に恐怖も伴う。
幻聴という形で、互いの存在が心を侵食し、擦り切れていく感覚。
甘く、危うく、そして逃れられない現実。
夜が深まると、二人の呼吸は重なり合い、音楽の痕跡と混ざり合う。
音は耳にではなく、心に直接触れる。
幻覚と現実の境界は薄れ、二人だけの世界がさらに閉ざされる。
翔は鍵盤に手を置き、震える指先で微かに音を紡ぐ。
昴は隣で譜面をなぞり、息を整える。
音は途切れず、二人の心を押し潰すように絡み合う。
窓の外の世界は遠く、音楽室の灯りだけが二人を照らす。
幻聴の旋律が心を削り、同時に依存の絆を強くする。
――これが、俺たちの世界。
痛みも不安も、逃れられない依存も、すべて二人だけの旋律に変わるのだと、昴は理解する。
夜が明けても、音楽は鳴り止まない。
幻聴に侵されながら、二人は互いの存在を確かめ合い、閉ざされた世界に沈んでいった。