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練習室の空気は、普段より重く、息苦しいものに変わっていた。
昴は譜面を前に、手を止めていた。手元には、オーケストラからの正式な依頼の書類。
――外部。しかも、大規模な舞台。
翔は背後で、その書類を覗き込むこともできず、ただ立ったまま固まる。
無愛想な顔の奥に、抑えきれない動揺が走る。
「……裏切ったのか?」
声は低く、怒りと不安が入り混じっていた。
昴は書類をそっと机に置き、顔を伏せる。
「違う……俺は、ただ……」
言葉が途切れ、胸が押し潰されそうになる。
翔の視線が、音楽室の空気を震わせる。
「ただ……何だ?」
指先が鍵盤に触れることもなく、翔は問い詰めるように迫った。
声の端に、傷ついた感情が隠れていない。
昴の心臓は早鐘のように打ち、頭が真っ白になる。
――こんなにも怖いとは思わなかった。
外部の仕事が、二人だけの世界を揺るがす現実になることを、昴は理解していた。
だが拒否することもできない。音楽家としての道を、少しだけ踏み出したい気持ちもある。
翔は譜面を乱暴に手に取り、指先で叩いた。
「俺たちの音は、誰かのために使われるものじゃないんだ!」
怒りと不安が混ざり、声が震える。
その瞬間、昴は胸に深く刺さる痛みを覚えた。
――翔が依存しているのは、俺の音だけ。 外の世界に向かうことは、彼にとっての裏切りになる。
沈黙が部屋を覆った。
互いの呼吸だけが聞こえ、鍵盤の上で指先をそっと触れる音が、二人の間をかろうじて繋ぐ。
昴は深く息を吸い込み、言葉を絞り出す。
「……裏切らない。俺の音は、翔のためにある。外の仕事は……翔の側にいるための手段だ」
言葉は震え、胸を打つ。だが翔はすぐには納得しない。
「手段だと? 俺は、俺たちだけの世界を壊されたくない!」
翔の怒りは、依存の極限を示していた。
昴はそれを受け止めるしかなかった。胸が痛む。
練習室には再び沈黙が落ちる。
だが、沈黙の中で二人の手が鍵盤に触れ、微かに絡み合う。
音符は鳴らずとも、存在の確かさだけが、二人を支えていた。
――二人だけの旋律は、外界が何を投げかけても、途切れない。
昴の心の奥でそう誓いながら、彼は書類を胸に抱く。
翔の側で音を紡ぎ、依存と愛を共に抱え続けるために。
夜が深まると、練習室は微かに冷たい空気に包まれた。
沈黙のリハーサル。言葉は少なく、感情は濃密に絡み合う。
外部の依頼がもたらした揺らぎは大きい。だが、二人の世界は、まだ壊れてはいなかった。