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墨図義己(すみずよしき)は眠れなかった。眠れない夜は珍しくない。むしろ眠れる夜の方が少ない。彼の住まうアパートの壁は薄かった。隣室のテレビの音が聞こえる。上階の足音も聞こえる。耳障りで仕方がない。 時計を見ると、午前二時四十三分だった。また同じ時間に目が覚めた。墨図は布団から起き上がる。汗をかいている。夢を見たせいだ。刑務所にいた頃の夢。暗い部屋、閉まる鉄扉、受刑者たちの視線に、笑い声、罵声、何度も聞いた言葉。
『ガキが相手じゃねえと勃たねえのか』
『なぁ、先生。俺らにも指導してくれよ』
塀の中にもヒエラルキーがある。子供に対する性犯罪者は、犯罪者の中でも最低辺と見なされていた。刑務所の中で墨図は受刑者たちから虐待を受けた。暴力的なもの、精神的なもの、性的なもの、それらが合わさったもの。当時のことは何も思い出したくなかった。しかし勝手によみがえる。墨図は、医師から処方された頓服薬を口に入れ、水を流し込んだ。定められた量よりも多かったが、それでも落ち着かない。
そんな時、墨図はいつも同じことをする。
手を伸ばし、スマートフォンを取る。検索窓を開き、かつての教え子の名前を打ち込む。活躍、引退、結婚、進学、事故──表示されるのは、何度も見たものばかり。それでもやめられない。何を期待しているのか、自分でも分からない。
一人、また一人。新たな情報がないことを確認しては落胆する。そうするたびに自分の中の何かが希薄になる。残り三人。残り二人。最後の一人の番になると、決まって墨図の手は震える。それでもやめられない。震える指で名前を打つ。
──神倉月。
検索結果が開く。いつものように何も見つからないだろうと思っていた。珍しい名前だから、同姓同名の別人の動向すら出てこない。しかし今日は違った。検索結果には確かに彼女の名前が表示された。しかしそれをタップすると、見慣れない動画サイトのサムネイルが並んでいる。
『【独自取材】東雲総合医療センターの闇』
『元フィギュアコーチ・墨図義己事件を追う』
氷の塊で心臓を貫かれたような気分だった。
喉が細く鳴り、白い画面が目に刺さる。
「……何だ、これ」
見てはいけない、と思った。自分に対する否定的な内容の動画など、百害あって一利なし、苦しむ羽目になるだけだ。しかし指が勝手に動く。失われた過去との繋がりを確認せずにはいられない。動画を開き、再生する。派手なテロップに、煽るようなBGM。薄暗い部屋に低い唸りが響く。
画面の中では軽薄そうな男が笑っていた。
『どうも、タカセ探偵局です』
聞いたことのない名前だった。墨図は眉をひそめる。彼はニュースを見なかった。テレビも新聞もネットニュースも見ない。些細なことでPTSDの症状に苦しむ羽目になるから、世の中の流れとは距離を置かざるを得なかった。避けているのはニュースだけではない。刑務所を出てから、人と関わることもほとんどなくなった。だから、墨図はこの男の存在を知らなかった。
動画は、昔のスケートクラブやリンクの外観、当時の記事、自分の顔写真を次々に映す。そのたびに胸が縮む。若い頃の自分の顔は、もはや別人だった。見たくない。胃の底が冷え、背中に汗がにじむ。
『墨図義己事件は氷山の一角だったのか?』
タカセと名乗る男は、不安を煽る口調で言う。コメント欄は罵倒で埋まっていた。
墨図は動画を止める。指先は冷たいのに、額だけが熱い。胸が苦しく、呼吸が浅くなる。息を吸っても喉の途中で引っかかるような感覚がある。
「……くそ」
頓服薬をまた一錠飲む。それでも墨図の手の震えは止まらない。コップを持つ指がかすかに鳴り、歯の根が合わない。ようやく動画が終わったかと思うと、画面の右側に関連動画が現れる。
『高瀬蒼介 失踪』
『高瀬蒼介さん遺体発見』
墨図は目を瞬かせた。心臓が嫌な沈み方をする。
「……死んだ?」
掠れた声で呟きながら、思わず画面をタップする。
ニュース動画が再生された。
『今月行方不明となっていた動画配信者・高瀬蒼介さんが、本日、市内の廃スケートリンクで遺体となって発見されました──』
淡々としたアナウンサーの声が、かえって現実味を帯びて耳に刺さる。
廃スケートリンク。その言葉だけで背筋が粟立った。冷たい床の感触、氷の匂い、遠くの靴音。何年も前のはずなのに、鼻の奥が勝手にあの場所を思い出す。
『警察は西村修平容疑者を殺人容疑で逮捕しています』
墨図はしばらく画面を見つめた。
自分を動画にした男が殺された。しかも、場所は廃スケートリンク。耳の奥で血の気が引くような音がした。指先が痺れ、スマートフォンを落としそうになる。
「……何なんだよ」
誰に向けた言葉でもなかった。スマートフォンを置こうとして、もう一度検索結果に視線を戻す。そこには高瀬の動画だけではなく、神倉月の名前の入った切り抜きやまとめ記事も並んでいた。
──神倉月。
その文字を見た瞬間、心臓が縮んだ。あの日、自分の逮捕のきっかけとなった少女の名前。もう二度と関わることはないと思っていた。検索は、それを確認するための儀式でもあった。なのに今、過去がまたゆっくりとこちらに歩いてくる。逃げても逃げても、背後から足音が近づいてくる。冷えた部屋の中で、その感覚だけが消えなかった。
翌日の午後、墨図は神倉月の勤務先である東雲総合医療センターを訪れた。
病院の正面玄関には、多くの警備員が立っていた。自動ドアの前にはカラーコーンと規制テープ。入口には「病院関係者以外の撮影は禁止します」という張り紙がある。高瀬蒼介の遺体が発見されて以来、病院には野次馬や報道関係者が連日のように押しかけていた。
「すみません」
警備員が墨図へ歩み寄った。
「ご面会ですか?」
墨図は一瞬言葉に詰まる。
「あ……いえ」
「では診察でしょうか」
「いえ……えっと……」
警備員は怪訝そうな表情になる。
「何かご用件がございましたら、お伺いしますが」
墨図は病院の建物を見上げた。
神倉月が、ここにいる。動画に映っていたあの看護師が。あの日、自分を激怒させ、抵抗して大人たちを呼び、自分を警察に突き出した忌々しいあの少女が、今は大人になってこの病院で働いている。
墨図はしどろもどろで警備員に答えた。
「……少し、中を見たいだけです」
警備員は困ったように笑った。
「申し訳ありません。現在、見学目的での入館はご遠慮いただいております」
墨図の視界の隅で自動ドアが開く。数人の看護師がロビーを横切っていくのが見える。その中に、一人だけ見覚えのある横顔があった。墨図の呼吸が止まる。神倉月。ワインレッドのスクラブを着た彼女は、長い髪をまとめ、カルテを抱えながら同僚と何か話をしている。墨図は彼女から目を離すことができなかった。
「どなたかお知り合いですか?」
突然、すぐ横から女性の声が聞こえた。墨図は肩を震わせる。いつの間にか、柔らかな笑みを浮かべた看護師がそばに立っていた。年齢は三十代前半だろうか。首から下げたネームプレートには、間今一花(まいまいちか)とある。
「神倉さんをご存じなんですか?」
一花の口調は穏やかだった。
しかし、その視線は墨図から離れない。
墨図は慌てて首を振る。
「い、いや……、動画で見ただけです。た、高瀬って人の」
一花は「ああ」と小さく頷き、困ったように笑う。
「最近、そういう方が多いんです。病院としても対応に追われていて。ご迷惑をおかけしています」
墨図は何も答えられなかった。ただ、ロビーの奥を見つめる。
月の姿は、もう見えなくなっていた。
一花も同じ方向へと視線を向ける。そして何気ない調子で口を開く。
「神倉さんのお知り合いではないんですね?」
「違います。昔、少し名前を聞いたことがあっただけです」
「そうでしたか」
一花はにこりと微笑んだ。
「安心しました」
「え?」
「最近、あの子も色々大変なので」
その言葉に、墨図は小さく眉をひそめた。
一花は穏やかな笑顔を崩さない。
「もし何かご用件がございましたら、お伺いしますよ」
親切な看護師。誰が見てもそう見えるような、優しげな笑顔だった。
◇
昼も夜も変わらない暗さの部屋だった。
中学生の頃にいじめを受けて以来、彼はずっとこの部屋に引きこもっていた。照明は落ちたまま。遮光カーテンは閉ざされたまま。暗闇の中でパソコンのモニターだけが青白く光っていた。
画面には、動画サイトの管理画面が映っている。
彼のアップした動画の数字が、信じられない速さで増え続けている。
かつて彼の兄が単独で動画を上げていた頃、彼はただこの部屋の隅でその配信を見ているだけだった。外に出ることも、人と話すこともできない彼は、自分に何かを任せてもらえるなんて思ってもいなかった。
けれど、兄はチャンネル名を複数形の名前に変え、そして当然のように言った。
『これからはお前にも手伝ってもらうぞ。編集も、ネタのブラッシュアップもだ』
彼が驚いて黙っていると、兄は肩をすくめて笑った。
『お前、細かいところに気づくの得意だろ。俺一人より、絶対いいものになるって』
それは、ただの思いつきではなかった。いじめで心を閉ざし、この部屋に閉じこもったままの弟に、少しでも自信をつけさせたい。自分にもできることがあるのだと、そう思わせたかったのだと、彼は後になって気づいた。
兄は弟の案を何度も採用した。動画の構成を一緒に考え、見せ方を整え、編集のやり方まで根気よく教えた。失敗しても責めず、うまくいけば真っ先に褒めた。
『いいじゃん。今の、かなり効いてるぞ。やっぱお前が入ると締まるわ』
最初はお世辞だと思った。自分が腫れ物に過ぎないことを彼は分かっていた。しかし兄の言葉は少しずつ、着実に、彼の胸の奥に小さな火を灯していった。外に出られなくても、誰かの役に立てる。自分の考えが、形になる。兄はそうやって、彼に少しずつ自信を与えようとしてくれていたのだ──
兄のかつての名前は黒烏(くろがらす)。
兄は弟を迎え入れると同時に、タカセ探偵局に改名した。
一人なのに探偵局、とアンチはたびたび嘲笑した。
そのたびに兄は彼──高瀬蒼司(たかせそうじ)にこう言った。
『優秀なブレーンの存在は隠しておいた方がいい。俺が一人でやってるって騙されてくれた方が好都合だ。まぁ、お前が表に出たいっていうなら支援するけどさ。無理に出ることはないぞ。兄ちゃんがお前を世界一の動画編集者にしてやるからな』
今、その光景が目の前にある。
兄が命を懸けた動画は、兄の死によって爆発的に拡散されていた。
コメント欄は止まることなく流れ続け、海外からの投稿も目立ち始めていた。
『Rest in peace.』
『Justice for Takase.』
『This hospital is hiding something.』
誰かが勝手に英語字幕を付け、兄の動画を再投稿していた。
さらに別の動画には、中国語。スペイン語。韓国語。
兄の動画が、世界中へ広がっていく。
蒼司は画面を見つめたまま、小さく笑った。
「この光景を、兄さんにも見せたかった」
その一言で、何かが切れた。ぽたり、と机に雫が落ちる。涙だった。兄が死んでから初めて流す涙だった。嗚咽は出ない。ただ静かに、止めようもなく頬を伝っていく。机の上には、兄の遺した手書きのノートがある。蒼司は手を伸ばし、ノートを抱きしめた。
モニターの向こうでは、動画の再生回数が今も増え続けている。
この数字だけが、この部屋の中で唯一、生きている──蒼司はそう思った。
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