ホテルでの仕事の最終日、楓は同僚達から小さな花束をプレゼントされ職場を後にした。
「みんなで集まる時には声をかけるからね」
「そんなに遠くないんだからたまには寄りなよー」
「身体に気を付けて元気でねー」
皆あたたかい言葉で見送ってくれたので楓は感謝の気持ちでいっぱいだった。
その日真っ直ぐアパートに帰った楓は、昼食を食べた後最後の荷造りを始めた。
引越しは明日に迫っていたので、もう使わない物はどんどん段ボールへ詰めていく。
荷造りが終わると、今度はトイレと風呂とキッチンを念入りに掃除した。
思い出がいっぱい詰まったアパートに感謝の気持ちを込めながら細かい所まで綺麗に磨き上げていった。
冷蔵庫は既に空にして電源を抜いていたので、今日の夕食は買ってきた弁当で済ませる。
テレビを見ながら食事をしていた楓は脇にあるスマホをチラリと見た。その後兄・良からの連絡は一度もない。
楓は良に職場と家が変わる旨のメッセージを送っていたがそれに対しての返事もなかった。
(お兄ちゃん、どうしたんだろう?)
楓が深いため息をついた時、タイミング良くスマホが鳴った。良からの着信だったので楓は慌てて出た。
「もしもしお兄ちゃん?」
「楓、ホテルの仕事を辞めて引っ越すって本当か?」
「うん。明日引越しで新しい会社の社宅に入る事になったの」
「動画の仕事はどうなるんだ?」
「あれはもう辞める。その代わりに親会社の社長さんから次の仕事を紹介してもらったの」
「ハァ? 辞める? じゃあ金はどうするんだ? まだ全額もらってないぞ?」
良のあまりにも大きな声に楓はビクッとする。
「お兄ちゃん、医学部を受けるっていうのは嘘でしょう?」
「……嘘じゃない、本当だ」
「だったらなんで女の人と一緒に住んでたの?」
「住んでないよ。あの日はたまたま遊びに来ていただけだ」
「嘘つかないで! 正直に言って!」
「嘘じゃないよ。なんでお前はそんな風に言い切れるんだ? 俺が彼女と住んでるって」
「調べたんだよ」
「調べた? 誰が何を調べたんだ?」
「藤堂組の人がお兄ちゃんの事を!」
その瞬間良は唾をゴクリと飲み込む。
「……お前今なんて言った?」
「だから藤堂組の人が調べたの」
「お前、なんで藤堂組の人間と繋がりがあるんだ?」
「何言ってんの? お兄ちゃんが私に紹介したプロダクションは藤堂組が経営してるんだよ」
「…………」
良は動画制作会社やプロダクションが藤堂組の傘下の会社だという事を知らなかったようだ。
びっくりした良はしばらくの間押し黙る。
「マジかよ……。ヤクザの藤堂組が経営してるのになんでお前は女優を辞められたんだ?」
「嫌がる人間を無理矢理使ったら会社的に問題になるからって…」
「お前が嫌々やるからそんな風に言われるんだろう? ったく……どうするんだよ金は……」
良は絶望したように声を荒げた。
「この前追加で100万円振り込んだのにまだ足りないの? ねぇお兄ちゃん、お金は何に使うの? お兄ちゃんは大きな会社で10年も働いてきたんだから貯金だってあるでしょう? それにもし本当にお金がないなら何であんな凄いマンションに住めるの?」
泣きそうになりながら楓は思っていた事を一気に問いただす。すると突然電話はブツッと切れた。
その瞬間楓の心に冷たい風が吹き込んできた。
(妹がどこへ引越そうがどこで働こうが、今のお兄ちゃんには全然関係ないんだね……)
実の兄の冷たい対応を目の当たりにした楓は漸く心に決めた。
(お父さんお母さん、ごめんなさい。私、お兄ちゃんと仲良くやっていくのは無理です。たった一人の家族だから仲良くしなくちゃって今までずっと我慢してきたけど……もう無理)
楓は両手で顔を覆うと、しばらくの間切ない声で泣き続けた。
そして引越しの日が来た。
昨日兄との決別を決意した楓は、思ったよりもぐっすり眠れた。
熟睡出来たのはここ最近引越しの準備で疲れていたせいもあるがそれだけではない。ずっとモヤモヤしていた兄との関係を断ち切る決心をした事で、楓の心はかなり軽くなっていた。それも一因だろう。
そしてもう一つ理由があった。
それはAV女優の仕事を辞めたからだ。
あの仕事を始めてから楓はずっと不眠気味だった。しかしもう女優業をしなくてもいいと一樹に言われたあの日からぐっすりと眠れるようになっていた。
だから今の楓は以前よりもぐんと元気になっていた。
もちろん兄からの酷い言葉と態度には深く傷付いていたが、以前ほどダメージはない。
楓は元気に飛び起きると、早速引越しに向けて準備に取り掛かった。
楓が荷物の最終チェックをしているとスマホが大きな音を立てる。
そこには見覚えのない番号が表示されていたので、楓は引越し業者だと思いすぐに出た。
「はい、長谷部です」
「楓、おはよう。準備は終わったか?」
聞き覚えのある力強いバリトンボイスは一樹の声だとすぐにわかった。一度聞いたら忘れられない声だ。
楓はいきなり一樹から電話がかかってきたのでびっくりする。
「おはようございます。準備は大体終わりました」
「そうか。今俺もそっちへ向かってるから……」
その言葉に更に驚く。
「だ、大丈夫です。手伝っていただくほど荷物はありまんから」
「いや、行くよ。行って色々と選別しないとだからな」
「選別?」
その意味がわからず楓はキョトンとする。
「家電類はうちにある物を使えばいいし、楓が使う部屋の家具は新しく揃えてやるから。だから本当に必要な物だけを運び込んであとは処分してもらおう」
一樹の説明を聞いても楓は何の事かわからなかった。
「あの……ちょっと言ってる意味がよくわからないのですが……」
すると一樹は受話器越しにククッと笑ってから言った。
「楓は今日から俺の家で生活するんだ。だから本当に大事な物だけを持って来い」
楓は自分の耳を疑う。そして驚きのあまりつい大きな声を出してしまった。
「ハァッ? なっ……何で……?」
その時玄関のインターホンが鳴った。しかし楓には全く聞こえていなかった。
楓はただ呆然としながらスマホを耳に当てたままその場で立ち尽くしていた。
するとスマホから一樹の声が聞こえた。
「引越し業者が来たんだろ? 開けてやれ! 俺はあと5分で着くから」
そこで電話は切れた。
楓がそのまま動けずにいると再び玄関のチャイムが鳴った。
その音にビクッとした楓は、急にハッと我に返り慌てて玄関のドアを開けに行った。
コメント
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やっぱり一樹さんのお家ーw 早くクソ兄良を成敗しなければっ
きゃーこの展開は何なんだ。楓呼びにお家が一緒だなんて、もう俺の「楓」になってんじゃん。兄さんこの恋は初恋だったけ?じゃあ「月の船に」もそろそろかなぁ?
ぜんぶうぅそさ、そんなもぉんさ(爆風スランプ『リゾ・ラバ』より)良は、すぅべてまやかしぃ~。ぜんぶうぅそさ、そんなもぉんさ、良の、おわりのはじまりぃ~。 勝手に妄想ストーリー:良がインターフォン鳴らす⇒五分後に一樹が来る。⇒良が、ヤスか誰かに連れ出される。⇒良のAV撮影が始まる⇒続く、か。