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「……奥様……」
お浜は、自分の懐で泣きじゃくる櫻子の背を、そっと撫でた。
「ああー、湿っぽい話、じゃないや、嫌な話をしてしまって、すみません。あたしのこと……嫌いになったでしょ?」
「違う!違いますっ!嫌いじゃないです!お浜さん!」
櫻子は、さらに泣きじゃくり、お浜の着物をぐっと掴んだ。
「お浜さんが、いてくれて、私、安心したんです。ここで、やっていこうと、諦められたんです!」
「あ、諦め?!」
櫻子は、嗚咽を堪えて、必死に続けた。
金原に、書き付けを見せられ、差し押さえられたのだと、愕然としたが、借金さえ返せれば、自由になれる。女中なら、自分でもできる。そう、決心できたのは、お浜が支えてくれそうだったからだと……。
「そ、それ、奥様ね、どうゆう話になってんですかい?キヨシが、また、こじらせるようなことしやがったか……」
お浜は、とにかく、とにかく、しか言えず、ひたすら櫻子の機嫌を取った。流していた涙は、当然乾き、櫻子だけが、号泣している。
「はははは、これは、また!」
困りきるお浜と、頼りきる櫻子の姿に、男の笑い声が降りかかってきた。
「お浜、なにやってんだ」
「な、なにって、なにって、なにってーー!!」
きゃーーと、お浜が黄色い声をあげた。
「八《やつ》っつあーーん!帰ってきたのかいっ!!」
廊下には、洋装に、古びた旅行鞄《トランク》を持つ男が、龍を従える様に立っていた。
「社長、どうします?」
と、男は振り返る。
後ろで金原が、渋い顔をしていた。
「まったく、龍、お前も、何か余計なことをしたんだろ?」
まあ、後でゆっくり事情を聞くとして……と、男は言葉を切り、鞄を置いて、台所へ入って来た。
洋服をスッキリ着こなす長身の男は、さっと、正座すると頭を下げた。
お浜にしがみつき泣いていた櫻子も、男の洗練された身のこなしに目を見張り、そして、あきらかに、自分へ対して頭を下げている姿を凝視してしまう。
「金原に仕える八代《やしろ》と申します。遠方への視察から、只今もどりました。柳原の櫻子お嬢様には、ご挨拶が遅れまして……」
八代と名乗り、男は、深々と頭を下げた。
「え、あ、あの、どうか……」
おそらく、龍よりも、金原よりも年上、三十路半ば過ぎか、ここにいる者の中で一番の年長者へ、頭を下げられた櫻子は、何か言うべきか、はたまた、自分も、挨拶すべきかなのだろうが、どう返答すれば良いのか、迷った。
八代の動きには隙がなく、そこから発せられる威圧感というべきものに、櫻子は、圧倒されて頭の中が真っ白になっていた。
人当たりよく接してくれているが、もしかしたら、金原よりも、睨みを利かせられるのではないかと思わせるほど、研ぎ澄まされたとでも言うべき雰囲気が流れている。
一言でいえば、恐ろしかった。
「あー、八代の兄貴が、堅苦しい挨拶なんぞ、するから、櫻子ちゃん、腰引けてますぜ」
龍が、飄々と言った。
「あっ、そうか。でも、始めが肝心っていいますからね。筋は通さないと、ですよね?社長」
頭をあげた八代は、ニヤリと笑うと、金原を伺った。
「いや、櫻子さん。さすが、柳原のお嬢様だ。肝が座っている。女中として働いて借金を返そうとは、また、立派な心構えだ」
でしょ?と、八代は、黙り混んでいる金原へ問うた。
「まあ、そうゆうことなら、櫻子さん、あなた、社長の専属女中におなりなさい。借りた相手に、直接返す。ついでに、世話した手間を、利息に置き換えれば、いいんじゃないですか?」
八代は、切れ長の目を細め、櫻子へ言った。
確かに。
何か妙な事を言っていると、櫻子にも、分かっていたが、それでも、すんなり納得できるのは、やはり、八代という男の、能力というべきか。龍やお浜とはまた異なる、口達者、いや、切れ者のぶりをみせつけられ、櫻子は、コクリと頷いていた。
「なんだか、わかんないけど、八っつあんが、そう言ってるんだから、櫻子ちゃん、そうしなさいよ」
「あ、は、はい。でも、旦那様のお許しが……」
「いやぁー、仕える者の鏡ですねぇ。社長!良い相手を選ばれた!」
さすがに、金原を前にして、八代の言いなりになるのは、不味かろうと、櫻子は、むすりとしている金原をちらりと見る。
「……奥向きを任せるのだから、女中みたいなものだ。しかしだな!八代!おれの世話を、専属でするということは……」
言いかけて、金原は、ぷいと、横を向く。
「ええ、それは、妻。夫婦ですよねぇ。櫻子さん?そこのところ、上手く立ち回ってくださいよ。それが、あなたの、ここでの本業。そして、妻としての、夫婦としての役割ですからね」
淡々と、八代という男は、思惑を通した。違う。通す男なのだと、櫻子は気がついた。しかし、もう、遅い。
櫻子の女中になりたいという願いは、叶えられた様に見せかけて、八代も、金原と夫婦にさせるつもでいるらしい。いや、させられてしまっている。
金原の妻としての役割を、遠回しに言い含め、体よく丸め込まれた。手強い相手が出てきた。と、櫻子は、ふと思うが、嫌悪はまるで感じなかった。きちんと、櫻子と向き合ってくれている感じがしたからだ。
と──。
お勝手の引き戸が勢い良く開いて、虎が帰って来たが……。
「え、え!!八代の兄貴!戻られたんですかー!いや、それ、えーー!祝い膳が、足りねぇーよー!」
重箱を抱えた虎は、叫んでいた。
「あっ!そうだ!今日は料理屋から仕出しを取ったんだ!でも、八っつあんが、戻って来ると思ってなかったから、確かに、一人分足りない!」
お浜も、叫ぶ。
「……外へ食べに行けばいい。膳は、お前らで食べろ」
「ほお、夫婦で外食ですか、それは、いい。櫻子さん、出番ですよ?」
止を刺すように、八代が櫻子へ言った。
「きゃー!夫婦で、出かけるっ!櫻子ちゃん、支度しましょう!!」
言われている事が、分かっていない櫻子は、お浜の叫びに、ポカンとし、金原は、何故か、一同を睨み付けていた。