映画館を出ると、夜の街は人の熱気とネオンの光でざわめいていた。ポップコーンの甘い匂いがまだ残っている。遥は無言のまま歩き、隣の日下部が何気なく手を差し出した。少しの間ためらったあと、遥はその手を握った。ぎこちないが、確かにそこに温もりはあった。
――その瞬間だった。
「……あれ?おい、遥じゃん?」
耳に、聞き覚えのある声。
振り向いた先に、中学の同級生。笑いながら、二人を値踏みするように見てきた。
「うわ、マジで生きてたんだな。影薄くて気づかなかったわ」
「お前さぁ、昔のこと忘れた? 兄貴と弟に“可愛がられてる”って噂、ずっとあったよな」
悪意しかない笑み。
遥の喉が、瞬間に塞がった。呼吸が苦しい。笑い飛ばそうと口角を上げるが、声にならない。
「へぇ……で、今は彼氏? 優しそうじゃん。偽善で付き合ってんじゃね」
鼻で笑い、奴らはそのまま通り過ぎていく。
残された遥の足は、地面に縫い付けられたように動かなかった。
耳の奥でざらついた声が反響し、混ざり合う。兄の晃司の低い嘲笑。弟の颯馬の湿った囁き。
手首を掴まれる感覚。背中を押さえつけられた圧迫。
「おまえなんか、どうせ誰にも愛されない」
過去の声が、街のざわめきに溶けて押し寄せる。
「……遥」
日下部が小さく呼ぶ。その手が肩に触れた瞬間、遥は反射的に身を引いた。
「やめろ」
押し返すように吐き捨てる声は震えていた。
その拒絶に日下部は目を伏せるが、手を離さない。ただ、黙って隣に立ち続けた。
遥はその優しさが、何よりも怖かった。
優しさは壊される。奪われる。裏切られる。
――「優しい」なんて、信じられるものじゃない。
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
「……くそ……なんで……」
膝が折れそうになり、近くのベンチに腰を落とす。視界が歪む。吐き気と涙が同時に込み上げるのに、どちらも表に出せなかった。
夜風が冷たかった。
隣の日下部は何も言わない。けれど、その沈黙が、責めるでもなく許すでもなく、ただそこにあることが――遥にはたまらなく苦しかった。