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翌朝、光の入り込まないキッチンに、人の気配があった。
水の流れる音。冷蔵庫の扉が開く。
怜央菜だった。
寝癖ひとつない髪を後ろで束ね、いつも通りの淡々とした顔。
遥は階段の影からその姿を見て、呼吸を止めた。
「おはよう」
声は静かだった。
ただ、それだけで背筋がこわばる。
怜央菜はコップを流しに置き、振り返らずに言った。
「昨日、遅かったね」
その一言だけで、足元の空気が崩れる。
晃司か颯馬のどちらかが言ったのだろう。
いや、言わなくても伝わる。
この家では、何も隠せない。
「……別に」
声がかすれる。
怜央菜はゆっくりとこちらを見た。
その目は、淡い茶色。けれど、冷たく澄みすぎている。
「“別に”って言葉、好きだよね」
微笑が浮かぶ。
笑っているのに、まるで温度がない。
「何か隠してる人ほど、そうやって言う」
遥は何も返さない。
怜央菜は一歩近づいた。
フローリングを歩く足音が、やけに滑らかだった。
「晃司たちに聞いた。外で日下部に会ってたんでしょ?」
その名を口にされただけで、胸がひりついた。
「……それが?」
「ふうん。まだ続いてるんだ」
怜央菜は冷蔵庫から氷をひとつ取り出し、グラスに落とした。
氷が小さく割れる音が、静かな朝に響く。
「お前、ほんとにあいつが好きなの?」
「……関係ねえだろ」
「関係あるよ。だってあんたが何するかで、この家の空気が変わるもん」
その言葉には、怒りでも興味でもなく、
まるで天気の話をしているような平坦さがあった。
「怜央菜」
「ん?」
「やめてくれよ、そういう言い方」
怜央菜は目を伏せた。
少しだけ肩をすくめる。
「何を“やめて”って? 私はただ、あんたがどんな顔してるのか見てるだけ」
その声はやわらかかった。
それが余計に、息苦しい。
「晃司も颯馬も、昨日、ちゃんと話したんでしょ?」
「話って……」
「“おかえり”って言われた?」
言葉が詰まる。
怜央菜はそれを見て、ゆっくりと微笑んだ。
「ほらね」
それ以上、何も言わなかった。
グラスの中の氷を回しながら、怜央菜は窓の外を見た。
朝の光が差し込んでも、その横顔には影が残っていた。
「……私、別にあんたを嫌ってるわけじゃないよ」
「ただ、同じ家にいて、息が合わないだけ」
「だから、黙ってくれたらそれでいい」
それは優しい言葉の形をしていた。
けれど、遥には“お前の居場所はどこにもない”という意味にしか聞こえなかった。
怜央菜はもうこちらを見なかった。
グラスの氷が音を立てて溶けていく。
遥はそのまま立ち尽くした。
声を出すことも、逃げ出すこともできないまま。
窓の外では、鳥が鳴いていた。
その音が、異様に遠く感じられた。