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階段の下から、晃司の声がした。
低く、抑えたような、けれど抗いがたい力のある響きだった。
「――遥」
名前を呼ばれただけで、心臓の奥が跳ねた。
指の関節まで一瞬で冷たくなる。
リビングの方から、笑い声がこぼれた。
颯馬のものだ。あの乾いた、無邪気を装う声。
つい数日前まで、それを聞くだけで胃がねじれるような思いをした。
そして今も、それは変わっていない。
部屋には鍵がない。
閉じこもるという選択肢は、最初から用意されていない。
「すぐ行く」
と小さく呟き、声が裏返る前にドアを開けた。
階段を降りると、二人が並んでいた。
晃司はソファの背にもたれ、頬杖をついてこちらを見ていた。
颯馬は床に腰を下ろし、テーブルの上でスマホを弄っている。
ふたりの視線が、同時に遥へと向く。
その瞬間、部屋の温度が数度下がったように感じた。
「お前、日下部とまだ会ってんの?」
颯馬の声は軽い。冗談のようでいて、逃げ道がない。
遥は返答できず、口を開きかけたが、晃司が遮った。
「……答えろ」
その声音には笑いがなかった。
ゆっくりと立ち上がり、歩み寄る。
足音が床を鳴らすたび、遥の呼吸が浅くなる。
「別に、何してようが勝手だけどな」
晃司の指先が、遥の肩に触れる。
それだけで、身体が小さく震える。
「ただ――外に逃げ場つくるの、好きじゃねぇんだよ」
その言葉のあと、颯馬が小さく笑った。
軽い調子で、しかしどこか刺すように。
「兄貴、怒ってんの?」
「怒るほどの価値があるか、こいつに」
その会話の合間にも、遥の脳裏では別の記憶が蘇っていた。
言葉の代わりに指先で示された「従順さ」。
拒否を許さぬ沈黙。
どれも痛みではなく、もっと静かな――支配の痕。
「……もういいか」
ようやく絞り出した声に、晃司は短く笑う。
「いいも悪いも、最初からお前の判断じゃねぇよ」
そのまま通り過ぎざま、背中を軽く叩く。
痛みはないのに、身体の奥で響く。
颯馬が続いて立ち上がり、無造作に遥の腕を掴んだ。
その手は冷たく、力の入れ方をわきまえていた。
「兄貴、もういいだろ」
「……そうだな。今日は」
手を離されると、空気が一気に緩む。
けれど安堵ではなかった。
あまりに急に世界が軽くなりすぎて、逆に足元が浮いた。
息を吐くことを思い出すまで、数秒かかった。
背中を向けたまま、晃司が言う。
「日下部には言っとけ。あいつもこっち側だって」
その一言が、部屋の中で長く響いた。
遥は頷くこともできず、ただ立ち尽くす。
呼吸の音がやけに大きく聞こえる。
颯馬がドアを開け、外の冷たい空気を流し込んだ。
その風の中で、遥はようやく小さく呟いた。
「……わかってる」
言葉の意味も、届く相手もなかった。
けれど、その声があったことだけは確かだった。