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夕暮れ前の相談室には、静かな空気が満ちていた。
窓の外では、帰り支度をする生徒たちの声が遠く揺れ、
日下部はその雑音がこの部屋へ届かないことに、少し救われる気がしていた。
ふと、控えめなノックが一度だけ響く。
躊躇いの色を帯びた音だ。
「……入れよ」
日下部が声をかけると、ゆっくり扉が開いた。
そこから顔をのぞかせたのは、俯きがちな目をしたSという子だった。
「少しだけ……いいですか」
「おう。座れ。話せる範囲で話せばいい」
Sは椅子に腰かけると、膝の上で両手をぎゅっと重ねた。
その指がわずかに震えているのに、本人は気づいていない。
しばらく沈黙が落ちてから、Sはぽつりと声を落とした。
「……“頑張ったね”って言われると、泣きそうになるんです」
それは告白というより、漏れ落ちた悲鳴のようだった。
自分でも理由の分からない痛みを、どうにか言葉にして押し出すような声。
日下部は瞬きもせず、ただその揺れを受け止める。
「苦しくなるのか」
「はい。……なんでか分からないんですけど。
嬉しいとかより先に、胸がぎゅって締まって……
“あ、もう無理かも”って思っちゃう。
泣くの、我慢してる感じで」
Sは自分の感情に追いつけていないまま、それでも懸命に言葉を紡いでいく。
「たぶん……“頑張った”なんて言われるほど、
頑張れてない気がするからだと思います。
周りの人の期待とか、家の人の言葉とか……
全部ちゃんとできてないままで。
だから、褒められると……
“こんな自分が認められていいはずがない”って……」
そこまで言うと、Sの声は震えを帯びた。
気づけば視線は膝に落ちていて、自分そのものを小さく折りたたんでしまうようだ。
日下部は、書類の上からペンを外し、机に軽く置いた。
音は小さかったが、Sの意識はそちらに向く。
「……なあ。
“頑張ったね”って言われて苦しくなるやつは、
本当に頑張ってるやつだよ」
Sは戸惑ったように顔を上げる。
「普通のやつはさ、頑張ってないことすら気づかない。
褒められても涙なんか出ない。
お前みたいに“自分が足りない”って思い続けてるやつほど、
ずっと張りつめてるんだよ。
だから誰かに触れられると、緊張が切れて泣きそうになる」
Sはゆっくりと息を吸った。
まるで、胸の奥にずっとしまっていた箱の蓋が少し開いたようだった。
「……でも、認められるのが、怖いんです。
言葉をかけられるたびに、
“本当の自分はこんなんじゃないのに”って思ってしまって……」
「怖いって思えるのは、嘘をついて生きてきたからじゃない。
“本気で期待に応えようとしてきた”からだ」
日下部の声は静かで、淡々としていたが、
その奥にはSが崩れないよう支える重みがあった。
「お前はずっと、誰にも見えないところで気を張ってきたんだろ。
家でも学校でも、“ちゃんとしなきゃ”って自分を追い立ててさ。
だから、“頑張ったね”って言葉は、
今まで積み上げた疲れ全部に触れるんだよ」
Sは眉を寄せたまま小さく頷いた。
涙はこぼれないが、その直前の震えが目元に滲む。
日下部は椅子に深くもたれ、目線だけSに合わせて続けた。
「いいか。
“認められるのが苦しい”ってのは、
お前が弱いからじゃない。
ずっと我慢してきた証拠だ。
限界に近いところで踏ん張ってきたやつ特有の、痛みみたいなもんだ」
Sは口元を押さえた。
泣く代わりに、息を震わせながら必死に堪える。
「……じゃあ、どうしたら……
“頑張ったね”を、そのまま受け取れるようになるんでしょうか」
日下部は少し考えてから、静かに答えた。
「まず、自分で自分に言え。
“今日の自分はここまでやった”って。
完璧じゃなくても、途中でもいい。
他人の言葉より先に、お前自身が自分の味方になるんだ」
Sの頬が少しゆるみ、長く閉ざされていた呼吸がほどけるように吐き出された。
「……難しいですけど。
やってみたいです」
「難しくていい。
簡単にできるやつは、そもそもここに来ない」
その言い方は雑に聞こえるのに、なぜかSの肩の力を抜いていく。
「また来てもいいですか」
「来いよ。
“頑張ってるくせに気づいてないやつ”の面倒見るの、嫌いじゃないから」
Sは小さく笑う。
泣きそうなまま、それでも少しだけ救われた笑みだった。
扉が閉まると、相談室には再び静けさが戻った。
だがその静けさには、さっきより少しだけ温度があった。