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六限が終わって生徒たちが帰りはじめる頃、廊下には足音の余韻だけが残っていた。
その余韻が薄れていくにつれ、学校は不思議なほど静まり返る。
日下部は相談室のカーテンを少しだけ開け、夕陽の色を確かめてから机に向き直った。
と、そのとき。
コン、という弱いノック。
遠慮がちで、ノックというより、触れただけのような微かな音。
「入っていいぞ」
声をかけると、扉がほんのわずかに揺れ、ゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、目だけがやたらと緊張している M だった。
「……あの、少しだけ……話、してもいいですか」
「いい。座れ」
Mは扉を閉め、まるで音を立てることすら迷惑になると思っているかのように、そっと椅子へ腰掛けた。
沈黙が落ちる。
Mは言葉を探しているようだった。
日下部は急かさない。ただ、待つ。
“待つことが必要な子だ”と、一瞬で察したからだ。
ようやく、Mの声が落ちてきた。
「……別に、人の視線が怖いとかじゃないんです。
嫌われてるとか、そういうのも……たぶん、ないんです。
でも……教室に入るだけで、すごく緊張します」
日下部は目線だけ向けて、静かに相づちを打つ。
「緊張、ね。どんなふうに?」
Mは膝の上で手を組み替えた。
その指の動きが落ち着かない。
「……入る前、扉の前で一回立ち止まっちゃうんです。
別に誰も見てないのに、“空気を乱しちゃいけない”感じがして……
みんなもう中にいるから、そこに入り込むのが怖いっていうか……
……うまく言えないけど……“その場そのもの”が苦手になる感じで」
言葉が苦しげにこぼれ落ちた。
M自身も、その理由が分かっていないようだった。
日下部はほんの少しだけ身体を前に傾けた。
話す側が「拒絶されていない」と分かる、ぎりぎりの距離まで。
「……その気持ち、分かるやつ意外と多いぞ」
Mの肩がわずかに震え、顔を上げた。
「え……本当ですか」
「ああ。
人の視線じゃなくて、“場”に緊張するタイプな。
空気の流れ方とか、すでに出来上がってる雰囲気とか……
あれに飛び込むのが苦手なんだよ」
Mは息を呑むように頷いた。
「……そうです、それです。
誰かが怖いわけじゃないのに……
教室って、完成されてる場所に入り込むみたいで……
自分がそこにいていいのか、わからなくなるんです……」
その告白には、長く抱えてきた重さが滲んでいた。
日下部は机の上のペンを指で軽く転がしながら、言葉を選んだ。
「教室ってさ、あれ見た目以上に“空気の圧”があるからな。
全員が当たり前の顔して座ってるけど……
その“当たり前”に遅れて入るのが、しんどいんだろ」
Mは、息を吸うでもなく吐くでもなく、ただ目を伏せた。
「……なんか、わかってもらえて……
安心したっていうか……
変な悩みだと思ってたから……」
「変じゃねぇよ。
むしろ、繊細で、場の雰囲気に敏感だからこそ起きる感覚だ」
その言葉に、Mの指先の震えがほんの少し弱まった。
「じゃあ……どうしたら、入るとき苦しくなくなりますか」
日下部はすぐに答えない。
一拍、呼吸を置いてから呟く。
「……まず、入る前に“自分の領域”を作れ。
扉の前で立ち止まるのは悪くない。
ただ、そのときに“場に合わせよう”って思うから苦しくなる」
Mはもう一度顔を上げる。
「自分の領域……?」
「そう。
一秒でいい。“今から俺が入る”って、自分にだけ宣言する感じ。
場に合わせる前に、自分の速度を守るってことだ」
Mの瞳に戸惑いと、少しの興味が混じる。
「……そんなことで、変わるかな」
「いきなり全部は変わらない。
でも、“入る瞬間の苦しさ”は確実に減る。
場に飲まれるんじゃなくて、お前が場に足をつける準備になるからな」
Mはしばらく考えてから、ぽつりと呟く。
「……やってみようかな。
なんか……今日、初めて……
“入るのが怖い自分”でもいいのかなって思えました」
日下部は小さく笑った。
優しくするでもなく、慰めるでもなく。
ただ、肯定だけがそこにあった。
「いいよ。それで。
怖いなら、そのままでいい。
少しずつ慣れりゃいい」
Mは深く息をつき、立ち上がった。
「……また来ていいですか」
「好きにしろ。枠は空けとく」
Mが去ったあと、相談室には静けさが戻った。
だがその静けさは、どこか柔らかかった。
さっきまでこの部屋にいた小さな震えが、少しだけ形を持った気がして。