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#大人ロマンス
桃下結衣
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「そうそう。あんな悪党とはさっさと別れて、俺と第二の楽しい人生を歩もうよ」
「誰があちこちにセフレがいる男と人生を一緒に歩みたいと思うのよ。本当、馬鹿につける薬はないわね」
平然とふざけた態度を取る直江先生に目を移し、麗香が睨みを利かせる。
「ああーもう、うるさいな。分かった分かった。俺は退散するから。……あっ、そうだ。亜紀ちゃんも三十分以内に院内から退散した方がいいよ。もうすぐご主人がオペ室から戻ってくるから。今、怖いお兄さんに捕まったら、強引に連れ戻されちゃうよ?」
直江先生は満面の笑みで不吉な言葉を残すと、軽く手を振って部屋を後にした。
「三十分以内!? あいつ、大事なことを言わず、くだらないことばかりペラペラと。亜紀、もう仕事は片付いた?」
麗香は扉に向けて舌打ちをしたあと、声を急かせた。
「あ、うん。仕事は全部終わった。私も8時に待ち合わせしてるから、そろそろ出ないと」
「待ち合わせって、蛍の君と?」
ベッドから立ち上がる私を見て、麗香が閉じたばかりの扉に手を掛ける。
「うん。今夜出張から戻ってくるから、一緒に食事を」
「食事って……こんな時に二人で出歩いて大丈夫なの? どこかで誰かに見られたら……」
「それは大丈夫。いつも食事は、宿泊してるホテルのレストランかラウンジで済ませてるの。とはいえ、引きこもり生活もそろそろ飽きてきたな。……逃亡生活みたいなものだから、仕方ないけど」
麗香の斜め後ろに立ち、苦笑いを浮かべる。
「いいんじゃない。愛する人との逃亡生活も刺激的でしょう?」
「刺激的って……全てにおいて刺激が強くて、脳が混線してる」
どこまで行っても常に黒い影が私につきまとい、不安と恐怖が圧し掛かる。
麗香の背中を追う私は扉を閉じ、地に落ちていくようなため息をついた。
行き交う人々のざわめきや車の音。入り混じった都会の騒音が、まるで海の底にいるかのように伝わってくる。
近くの路上で鳴ったクラクションの音にハッとして、項垂れていた顔を上げ、路面から視線を離した。
視界に映り込むのは、赤や青の灯りを散りばめた賑やかな街並み。
「はぁ……」
春の香りを含んだ夜風の中に、この場に似つかわしくない陰気なため息を落とした。
遼が藤堂教授と手を組み、優先的にオペをする報酬として、患者からお金を受け取っていたというのは本当なのだろうか……
疑いを抱いて思い返せば、直江先生が言うように、緊急だと言って遼から精密検査を頼まれたことは何度かあった。
検査をするにあたって、当然ひと通りカルテには目を通した。しかしその後、遼がどのような治療をしたかまでは、確認するつもりもなかったし、気に掛ける余裕すらなかった。
不正なやり取りが真実だとしたら、遼は一体いつから、何人の患者から、どれだけのお金を受け取っていたのだろう……
高級な装飾品を買い集めるわけでもない。
ギャンブルに手を出しているとも思えない。
女に貢ぐ? まさかっ。あの遼が、女のために大金を使うとは到底思えない。
楓を見ていれば分かる。与えてやるのは、欲望を満たすためだけの一時的な快楽だけ。
やはり頭に浮かぶのは、循環器病センターが絡んだ野望。
遼は私に『循環器病センターを手に入れる』と言った。そのための計画は、水面下ですでに進められていると――。
もしかして、その野望の後援者が藤堂主任教授なの?
だとしたら、教授自身の狙いはなに?
大学病院の主任教授にまでのし上がった人間が、他に何を手に入れたいと願うの?
共倒れなんて冗談じゃない。
ミイラ取りがミイラになるのも真っ平御免。
私にはやらなきゃいけないことがある。
やっと見えた目標が、夢がある。
「お母さん……お兄ちゃん」
今泉さん……。
ギュッと唇を噛み、目にしみるようなネオンと雑音が飛び交う街に視線を向けた。
カツカツとパンプスの音を鳴らしてコンクリートの階段を上り、宿泊しているホテルのロビーを抜け、突き当たりに見えるラウンジに入る。
声を掛けてきたウェイターは私の顔を見ると、「お連れ様のお席へご案内します」と言い、すぐさま奥のテーブルへ案内してくれた。
私たちがいつも選んで座るのは、外の景色から一番離れたソファー席。
遠くに見える街のネオンがどれほど綺麗でも、人目につく窓側に座ることなどできない。
病院と自宅がある地域からは、随分離れたこのシティーホテル。
平日の夜に知人に会う可能性はかなり低いと思うが、横目で辺りを見回しながらウェイターの後ろを歩く。
先に気づいたのは彼。
私の姿を見つけた今泉さんは、テーブルの上で小さく手を挙げ、ニッコリと笑う。
「ごめんね、待った?」
彼の手元にある、底が見えそうな珈琲カップを見て眉を寄せた。
「思ったより仕事が早く片づいて、二時間くらい前に名古屋に戻った」
「二時間前!? そんな早くからここで珈琲を飲んでたの?」
席に座った私は、彼の言葉に驚いて目を丸くする。
「まさかっ。会社に寄ってから来たから……ここに着いたのは三十分くらい前かな。さすがに珈琲だけで二時間は辛い」
私の間抜けな顔が可笑しかったのか、彼はプッと吹き出して目尻を下げた。
「あはは。さすがにそうだよね、うん。……あ、東京はどうだった? お気に入りのスカイツリーに寄った?」
「観光で行ったわけじゃないんだから。仕事だ仕事」
「じゃあ、寄らなかったの?」
「え? そりゃもちろん、寄ったに決まってる」
「やっぱりしてきたんじゃん、観光」
私は得意げに言う彼を見て、ププッと吹き出し、笑いのお返し。
「あっ、亜紀にお土産があるぞ。だけど、それは部屋に行ってからのお楽しみ。それより、早く食事にしよう。珈琲だけで腹ん中がタプタプだ」
笑いながら、彼は私にメニューを差し出した。
今泉さんは、チキンのグリルをメイン料理とした本日のおすすめコースを。私は新鮮な魚介類をふんだんに使ったペスカトーレのパスタコースを注文した。
ゆったりとした空間で寛ぐ客は、私たちを含めて20人ほど。
男女のカップルや、商談をしている雰囲気のスーツ姿の男性たち。女子会をしている中年女性たちは窓側の席に座り、ケーキを頬張りながら話に花を咲かせている。
ぼんやりとその光景を眺めながら、私はトマトソースを絡めた海老を口に運ぶ。
「……今日、病院で何かあったの?」
散漫になっていた意識を引き戻すかのように、不意に声を掛けられる。
「えっ?」
「心ここにあらずって顔してるから。もしかして、ご主人に何か言われた?」
彼はナイフとフォークを扱う手を止め、私を気遣うように目尻を柔らかく下げて問う。
「……ううん、今日は遼と顔を合わせてないから。あの人、午前中からずっとオペ室に籠ってたみたい」
「そうなんだ。話に聞くように外科医は大変なんだな。体力と精神力が勝負の世界だ」
「そう。トイレにも行かず、食事も取らずに何時間も立ちっぱなしだから。それだけハードなスケジュールの中でも、浮気をする体力を残せるくらいじゃないと、外科医は務まらないの」
皮肉めいた言葉を口にして、小さく笑う。
「ははっ。なるほど。亜紀も言うようになったな」
「身も蓋もないって思った?」
「身も蓋もない? どうして?」
「夫のすることを非難しながらも、結局は私も夫と同じことをしてるから。ホント、腐りきった夫婦よね」
私は自虐的な笑みを浮かべると、フォークにパスタをクルクルと巻いて口に入れた。
脈絡なく口から滑り落ちた言葉は、底知れぬ不安から生まれた恐怖と焦り。
今さら言うまでもなく、夫の浮気に対して憎しみに駆られ、我を見失うことなど私にはあり得ない。
あるとすれば、度重なる浮気で裏切るだけでは飽き足らず、私自身を出世の野望のために利用していたことに対する憤り。
愛し愛されて指輪を交わしたはずの二人なのに、どうしてここまで崩れてしまったのだろう……
無意識に、陰気な空気を漂わせる。
「……亜紀とご主人は違う。もちろん、俺もだ。もしかして、こうして一緒にいることが重く感じるのか?」
事情を知らぬ彼は苦笑し、一人で沈んでいく私を見つめながら、戸惑いを滲ませた声で問い掛けた。
コメント
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読了しました。直江先生の軽妙な警告と、亜紀の心の内が交錯する構成が絶妙でした。遼の不正疑惑が浮上する一方で、今泉さんとの和やかな時間にほっとできる空気感——そのコントラストが亜紀の抱える不安と罪悪感をより際立たせていますね。「腐りきった夫婦よね」という自虐に、この物語の根っこの悲しさが凝縮されていて、じんと来ました。続きが気になります!