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相談室のドアが、ノックの音も弱いまま開いた。
入ってきたのは、小柄な女子だった。肩までの髪が少し乱れていて、でもそのまま直そうとはしない。“誰にも触れられたくない”って空気をまとっていた。
遥が軽く手を上げる。
「そこ座って。緊張してる?」
女子はうつむいて小さく首を振る。
「……別に」
日下部は静かに資料を閉じ、蓮司は無言のまま腕を組んだまま様子を見ている。
女子は椅子に座ると、指先をいじりながらつぶやいた。
「……なんかさ。家では“いい子”って言われてんのに、外では“空気”なんだよね、私」
遥が眉を寄せた。
「空気って?」
「話しても、たいして返ってこない。グループの端っこにいると、居てもいなくても誰も気にしない感じ。私が何か言っても、“あ、うん”みたいな返事だけで流されるし……。なのに家だと、親に“あんたは素直でいい子ね”とか言われんの」
女子はかすかに笑った。
「それ聞くたびに、なんか違うって思う。私は家のために“いい子”やってるだけで、外では誰の目にも映ってないのに……どっちが本当の自分なのか分かんなくなる」
蓮司が口を開いた。
「家と外で役が違うやつ、割といるだろ。でも、それしんどいよな。そんだけ気使ってんのに、外で空気扱いされるのはさ」
日下部がうなずく。
「家で“いい子”を求められると、自分の意見や態度を出す練習ができないんだ。だから外で急に“話せ”“存在感出せ”って言われても、難しいんだよ」
女子は小さく顔を上げた。
「……練習とか、必要なの?」
遥が口元を少し緩める。
「必要っていうか……無理に頑張らなくていいけどさ。家で“いい子”って言われるタイプって、だいたい外で自分を薄める癖がつくんだよ。怒られたくないから、失望されたくないから、“何も問題起こさない人”でいようとする」
女子は黙って聞いていたが、指先が強く布をつまんだ。
「……でも、空気って言われると、私悪いことしたっけって思っちゃう。嫌われるようなことしてないのに、なんで存在感ないんだろうって」
日下部は静かに言う。
「嫌われてないから空気なんだよ。都合の悪くない人って、みんなスルーしがち」
蓮司が続ける。
「むしろさ、“空気”って、傷つけられても怒らない、拒まない、反発しないって思われてるからそうなるんだよ。……それ、いい子の副作用みたいなもんだろ」
女子の目が揺れた。
「じゃあ、どうしたらいいの……? いい子辞めたら、家で怒られるし。外で頑張ろうとしても浮くし。なんか……どっちでも居場所ない感じ」
遥が椅子を前に引き寄せ、距離を縮めた。
「無理して居場所作ろうとしなくていいよ。家で“いい子”しない日は、一日くらいつくっていい。外で空気になる日もあっていい。全部の場所で“完璧な自分”なんて作れないし、作ろうとすると余計苦しくなる」
女子は息を飲んだ。
「……でも、みんな普通にできてるじゃん」
「できてないよ。みんな、適当に取り繕ってんだよ。お前だけが下手なんじゃなくて、周りが“上手く見せるのが得意”なだけ」
日下部が補足する。
「外で自分を消す癖は、いきなり治らない。でも、自分の声を一回だけでも外に出す日をつくれば……それが積み重なれば変わる」
蓮司が言う。
「家で“いい子”やってんの、全部悪いわけじゃないけどさ。たまには“今日は疲れてるから無理”くらい言っていいだろ。言ったら崩れる関係なら、それは最初から脆い」
女子は、ゆっくり息を吐いた。
「……ここで話すと、“空気じゃないんだ”って思える」
遥が笑う。
「当たり前だろ。お前の話、ちゃんと聞いてる奴いるじゃん、ここに」
日下部も小さく頷き、蓮司は目をそらしながら「まあな」とつぶやいた。
女子は立ち上がると、控えめに頭を下げた。
「ありがと……また来てもいい?」
「好きにしろ」と蓮司。
遥が続ける。
「空気じゃないって、ちゃんと分かって帰れよ」
ドアが閉まると、相談室には少し温度が戻った。三人は次の相談を迎える準備をする。
その先にも、自分の存在が見えなくなった誰かが来るのを知りながら。