人は死の間際に、黒い“誰か”を見る。
だが、生者はその黒い影の正体を見ることができない。
深夜3時。
ナースステーションで看護師が言う。
「そろそろラウンドだから、行こうか」
「はい」
若い看護師は先輩看護師に言われて、照明を落とした病室の廊下を歩く。
病室のドアを開けて室内に入る。
ベッドに横たわる患者一人一人が、すやすやと寝ている姿を確認して、また次の病室に向かった。
病室のドアを開けると、窓辺のベッドに人影が目に入った。
——え?
驚く看護師が目を凝らして見ると、ベッドの上で身体を起こしている患者——老婦人だった。
転倒による大腿骨骨折で手術を受けた老婦人は、経過も良く退院を控えていた。
足音を立てずに、老婦人の元に近づいた看護師は、老婦人に静かに声をかける。
「どうされましたか? 眠れないのですか?」
何か身体の不調が出たのか、もしくは創部が痛むのか。
状態を確認しようとする看護師に、老婦人が柔らかく微笑む。
「いいえ。黒い人がね……来たの」
老婦人は窓に視線を向けた。
月の光が差し込む窓の向こうは、闇が広がり夜風が樹々の葉を揺らしている。
「黒い……人ですか?」
看護師が訝しげに窓を見ながら言うと、老婦人が看護師に振り向く。
「ええ。お迎えに来てくれたみたいなの」
「……」
看護師が言葉を詰まらせると、老婦人は布団を被って横になった。そして顔だけ看護師に向けて、真っ直ぐに見つめる。
「看護師さん、ありがとう」
「え?」
「お世話になって、皆さんに優しくしてもらって……幸せだったわ」
そう言って、老婦人は
「もう、寝ますね。おやすみなさい」
と言ってから、目を閉じた。
看護師は「おやすみなさい」と声をかけて、足音を立てずに病室を出ようとしたが、気配を感じて振り返った。
眠った老婦人のベッドの向こうの窓は、変わらない光景。
月明かりが遮られた気がしたが、それを看護師は気のせいだと思い、背を向けて病室を出た。
看護師が出ていくと、カーテンがわずかに揺れる。
眠る老婦人の身体の上に映る暗い影——月光と真逆の方向にゆっくりと伸びていた。
看護師がナースステーションに戻ると、先輩看護師もラウンドを終えて戻ってきた。
先輩看護師の顔を見て、看護師は安堵の表情を浮かべて言った。
「711号室の浦上さんですが……」
言い淀む看護師に先輩は
「どうしたの? 何かあった?」
と聞くと、看護師は首をゆっくりと横に振った。
「何かあったというわけではないですが……起きて座っていて……」
「……?」
「黒い人が……迎えに来たって言ったんです」
「え?! 何? やだ! そう言ったの?」
「……はい」
「黒い人って、患者さんが亡くなる前に、よく言うアレでしょ?」
先輩は少し怯えた顔をした。
「ええ。でも、浦上さんの状態は良くて、明後日に退院して老人ホームに戻る予定ですから……」
先輩の言葉を否定しようとした看護師は、無理に笑みを浮かべたものの、少し引き攣った笑みになっていた。
「そうよねぇ。長期入院で認知機能が低下する高齢者もいるけど、浦上さんはしっかりしているものねぇ。でも、もしかして……」
「いえ、会話はしっかりしていたので、急に認知機能に変化が出たわけじゃなかったです」
「……」
二人は黙り込んでしまったが、先輩が慌てながら言う。
「た、多分、寝ぼけてたのよ。きっとそうよ!」
「……そうですかねぇ」
「とにかく様子をみましょう」
そう言って二人は老婦人の発言を気にしながら、問題がないと思うようにした。
朝を迎え、勤務を終えた二人の看護師は、病棟を出て更衣室に向かっていた。
「浦上さん、朝はいつも通りだったわね」
「ええ。朝食も全部召し上がってましたし、バイタルも変わりなかったです」
「やっぱり、寝ぼけてたのよ」
先輩看護師が笑って言った、その時だった。
「コードブルー!コードブルー!7A病棟に集まりください」
院内放送を聞いた二人は、顔を見合わせた。
「ど、どういうこと?」
「病棟に戻りましょう!」
慌てて戻った二人が見たのは、老婦人を囲んだ医師、看護師達。
心臓マッサージを行なっている医師が叫ぶ。
「ルーカス持ってきて!DCも!」
「ルート取って!Aライン準備して!」
「挿管するよ!」
別の医師や看護師が救急カートから器具を取り出し、心電図モニターなどを装着して慌ただしい状態になっていた。
「まさか……そんな……」
呟きながら看護師は、視線を心電図のモニターに向ける。
激しく鳴り響くアラーム音。
心電図モニターの波形はフラットライン。
ASYSの文字。心拍0が表示されていた。






