コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌朝出社すると、北川はすでに席についていた。目が合って、いつものように単なる同僚としての挨拶を交わす。昨日リッコで偶然会ったのは夢だったかと思えるような、互いに淡白な挨拶だった。
夕べ一緒に飲んだということもあるのか、北川は課の男性たちとますます打ち解けた様子を見せていた。アルバイトをしていた時も、周りに溶け込むのがとても早かったことを思い出し、彼の変わっていない一面を見つけて嬉しくなる。
その気持ちが顔に出てしまったのか、隣の席の田苗がにやにやしながら椅子を引っ張って寄ってきた。
「なぁに、何かいいことでもあった?」
田苗の言葉にどきりとする。
「えっ、何もないよ?」
いつも通り振舞えているはずと思いながら、私はにっこり笑う。
「そうかなぁ。今嬉しそうな顔してたから、これは何かあったのかな、と」
田苗は疑うように私の顔をしげしげと見ている。
結婚しちゃったからヒトの恋バナが聞きたくて――。
近頃はそれを口癖にしている田苗だが、私にはその餌食になるつもりは毛頭ない。
「残念ながら、田苗が期待するようなことはないんだよね。ご期待に沿えずごめん。あ、でも一つだけ、嬉しいことがあったと言えばあったかな」
「何なに?」
田苗の目が輝きを帯びた。
「今朝の占いでね、今日は一位だったんだ」
田苗の顔が一気にしぼんだ。
「……占い、ね。ま、確かに一位は嬉しいね。良かったね」
つまらなさそうな顔をして、田苗は自分の席に戻って行った。
ひとまずはうまくごまかせたみたい――。
私は胸を撫で下ろし、パソコンの電源を入れた。立ちあがりを待っている時、なんとなく視線を感じて目を上げる。その先では北川が、面白いものでも見たと言うように、笑いをこらえるような顔をしていた。
資料室で約束してから、北川が私を見てそんな顔をすることはなかった。それなのにどうして、と狼狽える。もしも太田に見られたらとまずいと思い、慌てて目を伏せようとした。けれど、同じ課にいるのに避けるような態度を取ってしまう方が逆に不自然で、下手をすれば意識しているように見えないでもない。だから、私はちょっぴり微笑みを浮かべながら軽く頭を下げることにした。
分厚い紙の束を手に、部長の大槻が総務課にやってきたのは、そのすぐ後だった。
「おはようございます」
課の全員がその場でそれぞれに挨拶をする。
「おはよう。――あのね、笹本さん」
大槻が私の傍までやってきた。
彼の手元を見た瞬間に、今日は少し残業になりそうだと思った。
私のいる部署は全体的に残業が多すぎるわけではない。ただ、総務課として部長の仕事を手伝うこともままあって、そういう時は通常業務に加えての仕事となるから少々忙しくなる。そしてだいたいそういう場合は、主に私が引き受ける流れとなっていて、大槻も今では私をメインの秘書役と認識している感があった。
話を聞くために立ち上がろうとした私を止めて、大槻は言った。
「悪いんだけど、これ、お願いしたいんだ。このデータをまとめて、一覧にしてほしいことと、視覚的にも分かるようにグラフなんかも作ってほしい。今度の役員会議で使いたいんだ。前にも作ってもらったから分かるとは思うけど、前回作成分のデータを参考にしてもらえるかな。ひと通りできたら見せてほしい。笹本さんに仕事をお願いすることは、田中さんにはもう言ってあるから、こっち優先でお願いします」
ちらと田中を見ると、大きく頷いていた。恐らくいつものように、私の分の仕事をうまく配分してくれる予定なのだろう。
「はい。分かりました。これはいつまで作ればいいでしょうか?」
大槻は考えるように顎をさする。
「そうだな……。直したいところが出る可能性もあるから、第一期限は今日の夕方、私が帰るまででどうだろう。厳しいかな?」
私は部長から受け取った資料をぱらぱらとめくり、少し考える。
「基本的な体裁は、前回作ったものと同じでいいのでしょうか?」
「まぁ、そうだね」
「それでしたら、大丈夫だと思います。ギリギリなら皆んなに伝ってもらいますし」
大槻は笑った。
「うん、頼むよ。前回作ってもらった資料も分かりやすいって、役員さんたちから言ってもらってね。笹本さんの名前は出さなかったけど、うちの総務はできる人間ばかりなんだってアピールしておいたからね。それじゃ、よろしく」
「はい、承知しました」
私は頭を下げて大槻を見送った。
大槻が自分の席に戻って行ったのを見届けてから、田中が私たち総務の面々に向けて言った。
「皆んな聞いていたと思うけど、そういうことで。いつものように笹本さんメインで部長の仕事をやってもらうけど、何かあったら笹本さんのフォロー、皆んなでよろしく」
私は同僚たちが頷くのを見て笑顔で頭を下げると、早速大槻の仕事に取りかかった。
こうして午前中いっぱいと昼休憩を挟んだ後からもずっと、私は依頼された資料作りに取り組んでいた。時折電話を取りながらだったが、順調だ。ちょうどきりがいいところで、何気なくパソコン画面の時刻を見た時、隣から田苗が声をかけてよこした。
「笹本、コーヒーでも飲まない?私、休憩しようかと思うんだけど」
私は首のコリを解すように左右に軽く動かしながら言う。
「もう三時すぎたんだね。私、淹れて来るよ。座りっぱなしだったから、少し動きたい。他にもコーヒーほしい人はいますか?」
一応課の他の者たちにも声をかける。結局全員が飲みたいと言う。
「一緒に行くよ」
田苗が言ってくれたのを私は笑って断った。
「大丈夫。ただ、粉を入れるだけだし、トレイに乗せて戻って来るから」
「そう?悪いなぁ」
「どういたしまして。その代わり、電話とかよろしく」
「分かった」
「それじゃあ、ちょっと席を外します」
田中に断りを入れてから、私は全員分のマグカップを両手に持って給湯室に向かった。
給湯室は廊下の突き当りを少し入った所にある。そんなに頻繁に人が出入りする場所ではないから、普段は消灯されていた。
灯りをつけてマグカップを洗っていると、背後に人の気配を感じた。振り返ってどきりとし、にわかに緊張する。太田が立っていた。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
顔が強張りそうになるのをごまかすように、ちょうど洗い終えたマグカップをふきんで拭きながら、私は彼に微笑みかけた。
「太田さんもコーヒー飲みます?」
「淹れるんなら、ついでにもらおうかな」
太田は私の隣に立ち、持っていたマグカップをシンクに置いた。
それを洗おうと手を伸ばした時、太田の腕が私の体に巻き付いた。
全身が強張る。
「やめてください。こんなところ、誰かに見られたりしたら……」
私は身をよじって離れようとしたが、太田にぎゅっと抱き締められて動けない。
「俺は見られても構わないよ。それよりさ、俺のメッセージは見てくれた?夕べ送ったのが、まだ既読になってないみたいなんだけど」
はっとして頭の中で言い訳を考える。
「ご、ごめんなさい。あの、夕べはお風呂の後すぐに寝てしまって。今朝は今朝で寝坊しちゃって急いでいたから。それでまだゆっくり見てなくて……」
「幹事役、大変だったろうからな。疲れたんだろう」
太田は優しい声で言いながら、私の耳に歯を立てた。
「っ……」
「よそ見するなよ」
「よ、よそ見って何のことですか?」
「お前、あの男のことが気になってるだろ」
太田が誰のことを指して言っているのか分かってはいたが、私は分からないふりをする。
「あの男?」
「北川のことだよ。まさか自分で気づいていないのか?夕べの飲み会、あの男ばかり見てたくせに」
「北川さん?それは私、幹事だったから……。他の皆んなと仲良くできているのかなって……」
「いい大人なんだ。そんなこと、気にかけてやる必要なんかないだろ。今朝だってあいつに笑いかけてたけど、いつの間にかもうあんなに打ち解けた雰囲気になってるってのが気に食わない。……とにかく」
太田はわざと息を吹きかけるようにして、耳元で囁いた。
「前にも言ったと思うけど、俺以外の男をあんな目で見るのは許さないからな」
太田の腕に力が込められて苦しい。
「離して。苦しい……」
「あいつに見せてる笹本の表情が全部無意識のことだとしたら、余計に許せない。なぁ、頼むから俺を不安にさせないでくれよ。今夜行くから、俺の気のせいだった思わせてくれ」
「待って……。今夜は友達と食事に行く約束があるって、私、言ったはずですよね」
しかし太田はさらりと言った。
「そんなのキャンセルしろよ」
「そんなわけにはいかないわ」
「だったら、帰りは迎えに行くよ。何時頃に終わるんだ?」
太田は腕を解き、私の髪を指に巻きつけながら言う。
「はっきりとは分からない……。それに自分で帰れるから大丈夫です」
「俺が迎えに行ったら何かまずいことがあるわけ?」
太田は私の顔をのぞきこむ。
「その友達って、男じゃないだろうな」
「女の子よ。大学時代からの」
「それなら、俺が迎えに行っても全然問題ないよな?店とだいたいの時間、あとでメールしておいて。分かった?」
太田は低い声で囁くと、私のブラウスの襟をぐいっと開き、首筋を強く吸った。
「っ……」
「念のための虫よけな」
太田は満足そうな顔をして、ようやく私を解放した。
「俺、やっぱ、コーヒーはいいや。じゃあな。連絡、忘れるなよ」
私の返事を聞くこともなく太田が給湯室を出て行った後、私はようやく息をついた。彼がいる間ずっと緊張していた。消耗したような気分で、全員のマグカップにコーヒーの粉を入れる。
後はお湯を入れて――。
ため息をつきながらポットに手をかけた時、再び背後に人の気配を感じてどきっとした。太田がまた戻ってきたのかと、全身を強張らせながら振り向いた。しかしそこにいたのは北川で、その姿を見た途端一気に緊張が解けた私は、うっかり彼の下の名前を呼んでしまう。
「拓真君――」
「笹本さん、約束、自分から忘れていますよ」
「あ……」
「それなら俺も素で話してもいいよね?」
狼狽える私に北川はくすっと笑い、くだけた口調になった。
「コーヒー、全員分だと重いんじゃないかと思って、手伝いに来たんだよ。俺、ここでは一番の新入りだしね。……ところで、何かあった?」
「え?」
北川は気遣うような目をして私を見る。
「なんだか様子が変だからさ」
私は自分を立て直し、にこっと笑う。
「そんなことないよ」
「本当に?さっきそこですれ違ったんだけど、太田さんもここに来てたんだよね?彼と何かあったのかな、って思ったんだ。だって……」
北川は私の目をじっと見つめた。
「太田さんとすれ違った時、普通に挨拶をしたんだ。それなのに彼から睨まれた。俺、彼から敵意を向けられるようなことは、何もしてないはずなんだけどね。……これって、どうしてだろうな」
「さぁ……」
心当たりはあった。ついさっきの会話の中で、太田は漠然と私の気持ちに感づいているようだった。だから北川に対して、そういう目を向けたのだろうと推測できた。けれどこのことを話してしまったら、北川は私の気持ちに気づいてしまう。私と太田の問題に北川を巻き込んでしまうことにもなる。だから言えないと思った。
「偶然そう見えただけじゃないかな。太田さんって、確か目が悪いって言ってたから」
「ふぅん……」
北川は明らかに納得していない顔をしていた。しかし、諦めたようにため息をつく。
「分かった。今は色々なこと、聞かないよ。その代わり、夕べ会った時に言い損ねたことを今言わせて。この前も言ったけど、俺との時間を作ってほしい。できれば今夜にでも」
「今夜って……」
資料室での北川との約束はしっかり覚えているが、急すぎる。太田にも言ったが、今夜は友達との約束がある。
「ごめんなさい、今夜は先約があるから」
「……それって、太田さん?」
「まさか違うわ」
思いの外強い口調で否定してしまい、そんな自分に自分で驚く。
「大学時代の友達よ」
「そう。それなら……。来週は俺がだめだから、例えば再来週の月曜の夜はどう?」
「多分、空いていると思うけど……」
答えながら、二、三日前に太田と交わした会話を思い出す。その日は丸一日出張だから会えないと残念そうに言っていたから、その日ならきっと大丈夫だ。
「それなら、時間と場所は後でメッセージを入れる。いいかな?」
確認するように言われて、私はこくんと頷き小声で言った。
「分かった。待ってるから」
北川は嬉しそうに笑う。
「待ってて」
その笑顔に胸が高鳴ったが、鼻先をかすめたコーヒーの香りにはっとする。
コーヒーを淹れるという作業が、途中で止まっていた。私は急いでマグカップをトレイに並べ始めた。
「早く持って行かないと……」
「後は俺がやるよ」
北川はマグカップを手に取った。
「あ、私が……」
彼を止めようとして手を出しかけた私に、北川は慌てた。ちょうどポットのボタンに手をかけた時だったのだ。
「碧ちゃん、危ないよ」
「ごめんなさいっ」
北川は片目を瞑ってみせた。
「そこで大人しく見ていて。俺にもできるから」
「それなら、お任せします」
彼は手際よく次々とマグカップに湯を注いでいく。その滑らかな動きを眺めながら、思っても仕方のないことを考える。
あの時彼から逃げなかったら、今頃私は――。
何を今さら、と不毛なその考えを慌てて打ち消した。今はそんなことを考えている場合ではない。先に解決しなければならないことがあるのだ。
職場でまで嫉妬心を露わにした行動をとるような太田から、彼の束縛から、早く解放されたい。別れを告げた後のことを考えると怖いけれど、勇気を出して早く行動に起こさなくてはと気が急く。
重いため息が漏れそうになった時北川の声が聞こえて、私は我に返る。
「終わったよ」
なぜか達成感に満ちた様子が微笑ましくて、自然と口元が綻んだ。
「ありがとう。助かったわ」
「どういたしまして。半分ずつ持とうか」
「そうだね」
トレイを持った私たちは注意深い足取りでオフィスに向かった。
北川のやや後ろを歩き、その広い背中を見ているうちに、彼との恋人時代の思い出がありありと蘇ってくる。私の胸は懐かしさでいっぱいになっていた。