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翌朝私が出社した時にはもう、北川は席にいた。
いつものように単なる同僚としての挨拶を交わす。昨夜リッコで偶然会ったのは夢だったかのような、互いに淡白な挨拶だった。
夕べ一緒に酒を酌み交わしたからか、北川は課の男性たちとますます打ち解けた様子だった。学生時代に同じ所でアルバイトをしていたことがあったが、その時も彼は周りに溶け込むのがとても早かった。当時を思い出して、彼の変わっていない一面を見つけて嬉しくなる。
その気持ちが顔に出てしまっていたのか、隣の席の田苗が私を見てにやにやする。私の傍までわざわざ椅子ごと移動してきた。
「何かいいことでもあった?」
「な、何もないよ」
田苗の言葉にどきりとしたが、それを隠して私はにっこりと笑う。
しかし田苗は疑うように私の顔をしげしげと見ている。
「ほんとに?今すごく嬉しそうな顔してたよ。だから、これは何かあったのかな、と思ったんだけど」
最近の彼女の口癖は「結婚したからヒトの恋バナが聞きたくて」だが、私はその餌食になりたくはないし、そのつもりもない。
「残念ながら、田苗が期待するようなことはないんだよねぇ。ご期待に沿えず、ごめん。あぁ、でも一つだけ、嬉しいことがあったと言えばあったかな」
「何?」
田苗の目が輝きを帯びる。
「今朝の占い、今日は一位だったんだ」
田苗の顔が一気にしぼんだ。
「……占い、ね。ま、確かに一位は嬉しいね。良かったね」
つまらなさそうな顔をして、田苗は自分の席に戻って行った。
うまくごまかせたようだと胸を撫で下ろし、仕事を始めようとパソコンの電源を入れる。立ちあがりを待っている間、ふと視線を感じて目を上げた。
何が面白かったのか、北川が笑いを堪えるような顔をして私を見ていた。
動揺した。資料室での約束以来、彼がこの職場で私に対して柔らかい表情を見せることはなかったからだ。もしも今の場面を太田に見られたらとまずいと思い、慌てて顔を伏せようとした。しかし同じ課のメンバーに対して、避けるような態度を取ってしまう方が逆に不自然かもしれず、むしろ意識しているように見えないこともない。思い直した私はわずかに微笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
分厚い紙の束を手に、部長の大槻が総務課にやってきたのは、その時だった。
課の全員がその場でそれぞれに挨拶をする。
「おはようございます」
「おはよう。――あのね、笹本さん」
大槻が私の傍までやってきた。
彼の手元を見た瞬間、今日は残業確定だと思った。
私のいる部署は残業が多すぎるわけではない。ただ、総務課として部長の仕事を手伝うことも多く、そういう時は通常業務に加えての仕事となるから、いつもより忙しくなる。そしてだいたいその場合は、主に私が引き受けることになっている。そのため今では大槻も私を自分の秘書のように思っている感がある。
「悪いんだけど、このデータをまとめてほしいんだ。視覚的にも分かりやすいように、グラフなんかも入れて作ってもらいたい。今度の役員会議で使いたいんだよ。前にも一度作ってもらったよね。前回作成分のデータを参考にしてもらえるかな。ひと通りできたら見せてほしい。笹本さんにこの仕事をお願いする話は、田中さんにもう通してあるから、これ優先でお願いします」
田中に目をやると、大きく頷いている。いつものように、私の通常業務を他の者たちにうまく配分してくれるつもりなのだろう。
「分かりました。これはいつまで作ればいいでしょうか?」
大槻は考えるように顎をさする。
「そうだな……。直しが出る可能性もあるから、第一期限は今日の夕方、私が帰るまででどうだろう。厳しいかな?」
「基本的な体裁は、前回作ったものと同じでもいいでしょうか?」
「まぁ、そうだね」
「それでしたら、大丈夫だと思います。もしギリギリなら、みんなに手伝ってもらいますし」
「うん、頼んだよ」
「承知しました」
席に戻って行く大槻を私は頭を下げて見送った。
田中が私を含む課内の面々を見回す。
「みんな聞いていたと思うけど、そういうことで。笹本さんのフォロー、よろしくね」
「皆さん、よろしくお願いします」
同僚たちに頭を下げ、私は大槻の仕事に早速取りかかる。昼休憩を挟んだ後も、頼まれた仕事に集中する。終わりが見えてきたと思った所で、ひと息入れようと手を止めた。パソコン画面の時刻はそろそろ三時だ。お茶でも入れて来ようと思った時、田苗が声をかけてよこす。
「笹本、コーヒーでも飲まない?」
「ちょうど私もそう思ってたところよ。私、淹れて来る。座りっぱなしだったから、少し動きたいの。他にもコーヒーほしい人はいますか?」
ついでだからと、課の他の者たちにも声をかけた。全員が飲みたいと答える。
「私も一緒に行くよ」
席を立ちかけた田苗を私は止める。
「大丈夫だよ。粉を入れるだけだし、トレイに乗せて戻って来るから」
「大丈夫?」
「大丈夫よ」
「そう?なら、お願いしようかな。カップの片づけは私がやるよ」
「ありがとう。じゃあ、行ってくるね。課長、給湯室行ってきます」
私は全員分の空のマグカップを両手に持ち、田中に断りを入れてから給湯室に向かった。
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