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於田縫紀
7
第4話 江戸の橋下
橋の下は、町の音が少し丸くなって届いた。
上を人が歩く。
草履の音。
荷を担ぐ声。
犬の鳴き声。
遠くの売り声。
それらが板と石を通って、川の近くでやわらかくなる。
磁馬は橋の柱のそばに座っていた。
川はゆっくり流れている。
水面には、町の屋根と人の影が切れ切れに映っていた。
船が通るたび、映ったものはほどける。
ほどけて、またつながる。
磁馬はそれを見て、スケッチ帳を開いた。
「いいなあ」
小さく言う。
橋の下は、通りの表ではない。
けれど、表でない場所ほど、時間はよく溜まる。
柱に残った傷。
縄のこすれた跡。
水に削られた石。
誰かが休んでいたらしい、小さな草履の跡。
磁馬はペンを持った。
線を引く。
橋の影。
川の揺れ。
船の腹。
上を歩く人の足だけ。
その時、上から声が落ちてきた。
「いわし、いわしだよ。朝のいわし」
元気な声だった。
磁馬は顔を上げた。
橋のたもとから、桶を背負った少女が下りてくる。
手ぬぐいで髪を押さえ、袖を少しまくっている。
足取りは速い。
目はまっすぐ前を見ていた。
少女は磁馬に気づくと、足を止めた。
「そこで何してんの」
「描いてる」
「橋の下を?」
「うん」
「変な人だね」
「よく言われる」
少女は磁馬の手元をのぞいた。
「へえ。うまい」
「ありがとう」
「でも、魚は描いてないね」
「今、来たから」
磁馬は少女の桶を見た。
「魚売り?」
「そう。おりん」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたいな名だね」
「よく言われる」
おりんは笑った。
笑うと、強い顔が少しだけ年相応になる。
磁馬は絵に、おりんの足もとを描き足した。
桶の丸み。
布のしわ。
橋の下に差した人の気配。
おりんはしばらく見ていたが、すぐに桶を背負い直した。
「売りに行かなきゃ」
「忙しい?」
「魚は待ってくれないよ」
「それはそうだ」
おりんは橋の上へ戻ろうとした。
磁馬はインクを足そうとして、鞄から小さな瓶を出した。
墨染めの液が入った瓶だった。
布をほどく。
栓をゆるめる。
ペン先を近づける。
その時、橋の上を荷車が通った。
ごとん。
大きな音が柱に響いた。
磁馬の手が少し揺れた。
瓶が指から滑る。
「あ」
おりんが振り返る。
瓶は石の上を一度跳ねた。
ころん。
小さく転がり、橋の柱の影へ入る。
磁馬は手を伸ばした。
届かなかった。
瓶はさらに転がり、濡れた石の端で止まりかけた。
次の瞬間、船が通った。
水が揺れる。
瓶は少しだけ押され、川へ落ちた。
ぽちゃん。
音は小さかった。
けれど磁馬の顔から、ゆっくり血の気が引いた。
おりんも川を見た。
瓶は水面に少し浮いたあと、流れに乗って橋の奥へ動き出した。
磁馬は立ち上がった。
「落とした」
「見りゃわかるよ」
「探す」
「川だよ」
「探す」
磁馬は鞄を押さえた。
「見つかるまで帰らない」
おりんは目を丸くした。
「そんな小さな瓶で?」
「うん」
「変な決まりだね」
「うん」
おりんは桶を背負ったまま、川の流れを見た。
瓶はもう見えない。
けれど、流れは橋の下から川沿いへ続いている。
おりんは短く息を吐いた。
「仕方ないね。こっち」
「魚は?」
「少しくらい歩いても、まだ売れる」
「いいの?」
「困ってる顔されたら、気になるだろ」
おりんは先に歩き出した。
磁馬は急いで追う。
でも走らない。
走ると、また何かを落とす。
橋の下から出ると、江戸の町は明るかった。
川沿いには人が行き交い、船が荷を運んでいる。
干した網の匂い。
魚の匂い。
土と水の匂い。
おりんは慣れた足で進む。
「瓶、浮くの?」
「少し」
「沈む?」
「たぶん、しばらくしたら」
「じゃあ早くしないとね」
磁馬は川面を見ながら歩いた。
小さな木片。
葉。
縄くず。
泡。
瓶はない。
おりんは川沿いの人に声をかける。
「小さな瓶、流れてこなかった?」
船を押す男が首を振る。
「見てねえな」
豆を売る女も首を振る。
「瓶より魚を買っておくれ」
おりんはすぐに返す。
「あとでね」
磁馬は川の端へしゃがみこみ、水をのぞいた。
水は濁っている。
底は見えない。
でも、光の筋がゆらゆらしている。
その中に、瓶の影がある気がして、磁馬は手を伸ばしかけた。
おりんが袖をつかんだ。
「落ちる」
「うん」
「うんじゃないよ」
磁馬は手を引っ込めた。
そのやりとりを、橋の近くの男が見ていた。
太い眉。
日に焼けた顔。
船の綱を手にしている。
おりんが声をかける。
「弥助さん、小さな瓶、流れてこなかった?」
弥助は川を見た。
「さっき、橋の下から何か来たな」
磁馬が一歩前に出る。
「どこへ」
弥助は川の曲がりを指した。
「あっちの杭のあたり。流れが弱い。引っかかるならそこだ」
「ありがとうございます」
磁馬は頭を下げた。
おりんはもう歩き出している。
「ほら、急ぐよ」
川沿いの道は、ところどころぬかるんでいた。
磁馬の靴に泥がつく。
おりんの足は慣れていて、滑らない。
桶の中で魚が少し動く。
おりんはそれを背負い直した。
「その瓶、そんなに大事なの」
「大事」
「高いの?」
「高くはない」
「じゃあ何で」
磁馬は少し考えた。
川を見たまま言う。
「持ってきたものだから」
「それだけ?」
「それが大事」
おりんはふうん、と言った。
納得したわけではなさそうだった。
でも、それ以上笑わなかった。
杭のある場所へ着いた。
川が少し曲がり、流れがゆるくなっている。
古い木の杭が何本も立ち、そこに葉や藁が引っかかっていた。
磁馬は目をこらした。
おりんも桶を下ろして、川べりにしゃがむ。
「見える?」
「まだ」
弥助が遅れて来た。
長い竹竿を持っている。
「手で取るな。流れはおとなしく見えても引く」
磁馬はうなずいた。
弥助は竹竿で杭のまわりを探る。
葉が動く。
藁がほぐれる。
水が濁る。
何か硬いものが、こつんと鳴った。
磁馬の肩が動いた。
弥助が竹竿を慎重に寄せる。
水面に、小さな瓶が見えた。
布の切れ端が栓に絡み、杭の根元に引っかかっている。
「それだ」
磁馬の声が震えた。
弥助は竿で少しずつ寄せた。
おりんが桶から使い終わった細い縄を出す。
「これ、使って」
弥助は縄を竹竿の先に結んだ。
何度か失敗した。
瓶はくるりと回る。
少し流れかける。
磁馬の手が空で固まる。
おりんが叫んだ。
「行くな!」
まるで瓶に言っているようだった。
弥助が竿を入れ直す。
縄が瓶の首にかかった。
ゆっくり引く。
水面を切って、瓶がこちらへ来る。
磁馬は両手を差し出した。
弥助が最後に竿を上げる。
瓶は濡れたまま、磁馬の手の中へ戻った。
栓は外れていない。
布は汚れている。
でも瓶は割れていなかった。
磁馬は胸に抱えた。
「見つかった」
おりんは大きく息を吐いた。
「魚より手間がかかった」
弥助は少し笑った。
「大事な瓶ならよかったな」
磁馬は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
おりんにも向き直る。
「ありがとう」
おりんは照れたように桶を背負い直した。
「いいよ。売り歩きの道と同じだし」
けれど、魚を売る声は少し遅れていた。
磁馬はそれに気づく。
「手伝う」
「何を」
「魚を売る」
おりんは目を丸くした。
「売れるの?」
「たぶん」
「たぶんは困るね」
磁馬は少し笑った。
三人は川沿いを戻った。
弥助は途中で船へ戻り、おりんと磁馬は町へ入った。
おりんはよく通る声で売り歩く。
「いわしだよ。朝のいわし」
磁馬も後ろで小さく言う。
「いわしです」
おりんが振り返る。
「声が小さい」
「いわしです」
「まだ小さい」
「いわしです」
通りの女が笑った。
「変な売り子が増えたね」
おりんはすかさず桶を下ろす。
「変だけど魚はいいよ」
魚は売れた。
一匹。
二匹。
また一匹。
磁馬は包む手つきを見ていた。
魚の光。
水のにおい。
おりんの指の速さ。
買う人の目。
その全部を描きたくなる。
でも今は、おりんの手伝いが先だった。
最後の数匹が売れたころ、日は傾き始めていた。
川沿いへ戻ると、橋の影が長く伸びていた。
おりんは桶を軽く叩いた。
「空になった」
磁馬は言った。
「よかった」
「お腹すいた」
「僕も」
おりんは少し考えてから、近くの団子屋へ向かった。
「一本くらいなら奢る」
磁馬は立ち止まった。
「いいの?」
「瓶探した手間賃じゃないよ。売るの手伝った分」
「ありがとう」
磁馬は団子を受け取った。
甘い味がした。
川のそばで食べると、風まで少し甘くなる気がした。
おりんは隣で団子をかじる。
「絵、描くんでしょ」
「うん」
「橋の下?」
「川沿いも」
「魚も描いてよ」
「描く」
磁馬はスケッチ帳を開いた。
戻ってきたインク瓶を、布で拭く。
栓を開ける。
ペン先に少しだけつける。
線は、さっきより濃く出た。
橋の下。
川の曲がり。
杭。
竹竿。
弥助の腕。
桶を背負うおりん。
水から戻った小さな瓶。
そして、魚を売る少女の声。
声は描けない。
でも、口の形や背中の力で少しだけ残せる。
磁馬はゆっくり線を引いた。
おりんは横で黙って見ていた。
「川、動いてるみたい」
「動いてるから」
「絵なのに?」
「うん」
紙の中で、川がほんの少し揺れた。
杭に引っかかった瓶が、水に押されて回る。
おりんが手を伸ばす。
弥助の竹竿が近づく。
何度も、瓶は戻ってくる。
おりんは息を止めた。
「変な絵」
「よく言われる」
「でも、いい絵」
磁馬は笑った。
描き終えると、小さな紙を一枚出した。
そこに、おりんを描く。
桶を背負い、橋の上へ向かう姿。
魚売りの声が、今にも聞こえそうな顔。
足もとはしっかり前を向いている。
磁馬はその紙を差し出した。
「これ」
おりんは受け取った。
「くれるの?」
「うん」
「売れる?」
「売らないほうがいい」
「なんで」
「おりんのだから」
おりんは紙をじっと見た。
川風が吹く。
紙の中の手ぬぐいが、ほんの少し揺れたように見えた。
おりんは急いで胸に抱えた。
「濡らさないようにする」
「うん」
磁馬はインク瓶を布に包んだ。
鞄の奥へ入れる。
留め具を確かめる。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
橋の上では、人の足音が増えていた。
町は夕方へ向かっている。
おりんは桶を背負い直した。
「また橋の下にいる?」
「たぶん」
「たぶんか」
「うん」
おりんは笑った。
「じゃあ、また変なもの落としたら呼んで」
「なるべく落とさない」
「なるべくじゃだめだよ」
磁馬は少し困った顔で笑った。
おりんは橋の上へ駆けていく。
その背中は、夕方の町へすっと混ざった。
磁馬は川沿いに立ち、しばらく水を見ていた。
落とした瓶は戻ってきた。
魚は売れた。
団子は甘かった。
橋の下は、まだ町の音を丸くしている。
スケッチ帳の中で、川はゆっくり流れ続けていた。
瓶が落ちる。
流れる。
引っかかる。
見つかる。
そして、魚売りの少女が笑う。
磁馬は鞄を抱えた。
足もとを確かめる。
もう何も落としていない。
橋の影が伸びる中、磁馬は川沿いを歩き出した。
水の匂いと、魚の匂いと、団子の甘さが、
今日の線になって残っていた。
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