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第5話 雨上がりの未来市場
雨は、止んだあとに本当の顔を見せる。
磁馬は未来市場の入口で立ち止まり、鼻からゆっくり息を吸った。
濡れた床。
冷えた野菜。
遠くの蒸し器。
透明な屋根を伝って落ちる水滴。
人の服についた雨の名残。
全部が混ざっていた。
未来市場は、古い市場よりずっと広かった。
屋根は高く、柱は細く、床には水が残らないように小さな溝が走っている。
店は屋台のようでもあり、箱のようでもあり、光る棚のようでもあった。
野菜は根をつけたまま並び、魚は水の膜の中で眠っている。
果物は切られていないのに香りだけを試せる。
パンの店では、焼きたての匂いだけが先に通路へ流れていた。
磁馬は、また鼻から息を吸った。
「いいなあ」
雨上がりの匂いは、目に見えない。
でも描きたかった。
水の粒ではない。
濡れた影でもない。
乾いていく途中の、ほんの短い気配。
磁馬は市場の端にある低い腰掛けに座った。
スケッチ帳を開く。
ペンを出す。
鞄を足もとに置く。
そして、小銭袋を出した。
未来市場用の小銭袋だった。
硬貨というより、小さな薄い札が何枚か入っている。
この時代では、ほとんどの人が手をかざして支払う。
けれど磁馬は、使える場所では小銭袋を使う。
食べ物は、今いる時代の支払いができるならそこで買う。
それが磁馬の決まりだった。
近くの店から、湯気の立つ小さな包みが見えた。
中に何が入っているのかはわからない。
けれど、匂いがよかった。
磁馬は小銭袋を膝に置き、まず絵を描き始めた。
市場の入口。
濡れた床。
水の溝。
屋根から落ちる水滴。
野菜の葉に残る粒。
人の足が通ったあとの薄い跡。
線を置く。
匂いは線にならない。
だから、匂いの周りを描く。
濡れた木箱。
湯気。
冷えた果物の皮。
雨を払う手。
描いていると、声がした。
「そこ、濡れてますよ」
磁馬は顔を上げた。
緑の作業上着を着た少女が立っていた。
短い髪が耳の下で揺れている。
腰には小さな端末。
手には香りの強そうな葉野菜を持っていた。
「濡れてる?」
磁馬は自分の座っている場所を見た。
腰掛けの端が少し濡れていた。
「少しだけ」
少女はあきれたように息を吐いた。
「少しだけでも、あとで冷えます」
「ありがとう」
磁馬は横へ少しずれた。
少女は磁馬のスケッチ帳を見た。
「市場を描いてるんですか」
「うん」
「雨上がりだから?」
磁馬は少し驚いた。
「わかる?」
「うち、香り野菜の店だから。雨のあと、葉の匂いが変わるんです」
「いい店だ」
少女は少しだけ笑った。
「ナツメです」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「珍しい名前ですね」
「よく言われる」
ナツメは自分の店を指差した。
「そこの店です。何か食べるなら、雨上がり包みがおすすめ」
「雨上がり包み」
「葉と蒸し生地で作るやつです。名前だけ大げさだけど」
磁馬は小銭袋へ手を伸ばした。
そこに、ない。
膝の上を見る。
ない。
腰掛けの横を見る。
ない。
足もとを見る。
ない。
磁馬の手が止まった。
ナツメが首をかしげる。
「どうしました?」
磁馬はゆっくり立ち上がった。
鞄を開ける。
スケッチ帳の下を見る。
ペンケースの横を見る。
上着の内側を見る。
小銭袋がない。
さっきまで膝に置いていた。
雨上がり包みを見て、絵を描き始めて、それから。
磁馬は息を止めた。
「なくした」
ナツメがまばたきした。
「何を?」
「小銭袋」
「支払い袋ですか?」
「うん」
磁馬は腰掛けの下をのぞいた。
ない。
水の溝。
足もと。
店の台の下。
ない。
ナツメはすぐにしゃがんだ。
「どんな形?」
「小さい。茶色。布。中に薄い札が入ってる」
「古い型ですね」
「うん」
「落とし物登録します?」
磁馬は首を振った。
「まず探す」
「でも市場広いですよ」
「見つかるまで帰らない」
ナツメは少しだけ目を丸くした。
「そんなに大事?」
「うん」
「中身より?」
「袋ごと大事」
ナツメは磁馬の顔を見た。
冗談ではないとわかると、立ち上がって店のほうへ向いた。
「少しだけなら手伝えます。店、端末に任せます」
「いいの?」
「雨上がり包み、食べるつもりだったんですよね」
「うん」
「じゃあ、お客予定の人が困ってるので」
磁馬は頭を下げた。
「ありがとう」
二人は探し始めた。
まず腰掛けの周り。
野菜の箱の下。
通路の端。
水の溝。
小銭袋はなかった。
濡れた床には、人の足跡が薄く残っている。
市場の床はすぐに乾くように作られているらしく、跡は次々に消えていく。
ナツメは床を見ながら言った。
「さっき、清掃機が通りました」
「清掃機?」
「水滴とか葉くずを集めるんです。小さい袋なら、一緒に回収したかも」
磁馬は顔を上げた。
「どこへ行く?」
「清掃係のハルトさんが持ってます」
二人は市場の奥へ歩いた。
雨上がりの未来市場は、少しずつ乾いていく途中だった。
天井から水滴が落ちる。
床の溝へ流れる。
蒸し器の湯気と混ざる。
磁馬は歩きながら、描きたいものが増えていくのを感じた。
けれど今は探す。
決まりは簡単だった。
持っているものは落とさない。
落としたら、見つかるまで戻らない。
小銭袋は、ただ支払いのためだけのものではなかった。
行く先々の時代を混ぜないための印だった。
現代のもの。
江戸のもの。
昭和のもの。
未来のもの。
それぞれ分けて持つ。
違う時代の支払いを、別の時代に置いていかない。
磁馬は鞄を強く押さえた。
ナツメが振り返る。
「走らないんですか?」
「走ると、また落とす」
「なるほど」
「なるほど?」
「慎重なんだか、うっかりなんだか」
「両方」
ナツメは笑った。
通路の先で、灰色の作業服の男が床を清掃していた。
背中の機械から細い管が伸び、床の水を吸い上げている。
音はほとんどない。
濡れた光だけが、機械のあとで消えていく。
ナツメが声をかけた。
「ハルトさん」
男は顔を上げた。
「落とし物?」
「早いですね」
「探してる顔だった」
磁馬は頭を下げた。
「小さい布の袋をなくしました」
ハルトは腰の容器を外した。
「雨上がりの回収分なら、まだ分けてない」
容器の中には、葉の切れ端、紙片、小さな包装、誰かの落とした飾りなどが入っていた。
磁馬はしゃがみこんだ。
ナツメも見る。
ハルトは慣れた手つきで中身を分けていく。
「これは包装」
「これは店のタグ」
「これは髪留め」
「これは葉くず」
小銭袋はなかった。
磁馬は唇を結んだ。
ハルトは床を見た。
「さっきの清掃範囲は入口から香り野菜の列まで。袋がないなら、誰かが拾ったか、溝を流れたか」
「溝」
磁馬は市場の床を見た。
細い溝が通路に沿って走っている。
水はそこを通って、奥の回収口へ向かっている。
ナツメの顔が変わった。
「回収口に入ったら、仕分け槽です」
「行ける?」
「行けます。でも遠い」
「行こう」
ハルトは清掃機を止めた。
「案内する」
磁馬は頭を下げた。
「ありがとうございます」
三人で市場の奥へ向かった。
通路を進むほど、客の声が変わっていく。
入口は賑やかだった。
奥は作業の音が多い。
箱を運ぶ台車。
食材を冷やす機械。
水を流す管。
店の人たちの短い声。
ナツメは歩きながら説明した。
「雨上がりは忙しいんです。床の匂いが変わるから、香りの弱い商品は奥へ下げます」
「匂いを売ってるの?」
「食べ物を売ってます。でも匂いで選ぶ人が多いから」
「いい市場だ」
「磁馬さん、何でもいいって言いそう」
「何でもはよくない。でも、いろいろいい」
ハルトが少し笑った。
市場の奥に、低い扉があった。
ハルトが認証して開ける。
中には、水の流れる音が満ちていた。
細い水路が何本も集まり、小さな槽へ入っている。
葉くずや紙片が網に引っかかり、機械がゆっくり仕分けしていた。
磁馬は目をこらした。
茶色の布袋。
ない。
ハルトは機械を止め、網を引き出した。
ナツメが横からのぞき込む。
「これ、違いますね」
「これは古いラベル」
「これは豆の袋」
磁馬も一つずつ見る。
袋はない。
胸が少し沈む。
その時、奥の水路で何かが引っかかった。
茶色いもの。
磁馬が身を乗り出す。
ハルトが手を伸ばし、細い道具でそれを寄せた。
出てきたのは、濡れた茶色の紙だった。
小銭袋ではない。
ナツメが磁馬を見た。
「まだ、ほかの水路もあります」
磁馬はうなずいた。
「探す」
ハルトは別の網を引き出した。
何もない。
次の網。
何もない。
さらに次。
水の音だけが続く。
その間にも、市場の雨上がりの匂いは薄くなっていく。
磁馬は少し焦った。
描きたかった匂いが、遠ざかっていく。
でも小銭袋が先だった。
ナツメがその顔に気づいた。
「絵、描きたいんですか」
「うん」
「匂い、消えちゃいますもんね」
「うん」
ナツメは水路の網を見ながら言った。
「雨上がりの匂いって、一個じゃないんです」
磁馬はナツメを見た。
「一個じゃない?」
「入口は濡れた床。野菜の列は葉。蒸し物の通路は湯気。魚のほうは冷たい水。乾き始めると、また違う」
ナツメは少し笑った。
「だから、全部消えるわけじゃないです。場所を変えれば、まだ残ってます」
磁馬はゆっくり息を吸った。
水路の部屋にも匂いがあった。
濡れた葉。
機械の温度。
水の底。
市場の裏側。
「ここにもある」
「あります」
磁馬は少しだけ落ち着いた。
ハルトが最後の網を引き出した。
そこにも小銭袋はなかった。
磁馬は黙った。
ハルトは考えるように、入口のほうを見た。
「水路にないなら、人が拾った可能性が高い」
「どこへ届ける?」
「市場案内所」
ナツメが手を打った。
「案内所なら、入口の上です。近道があります」
三人は作業通路を抜けた。
階段ではなく、ゆっくり上がる床に乗る。
磁馬は少し足を固くした。
床が動くのは、まだ慣れない。
ナツメが笑う。
「大丈夫です。落ちません」
「僕は落ちなくても、物が落ちる」
「鞄、押さえてますね」
「うん」
「すごく」
磁馬はさらに鞄を押さえた。
案内所は、市場を見渡せる高い場所にあった。
透明な柵の向こうに、店が並んでいる。
さっき歩いた香り野菜の列。
蒸し物の通路。
水路へ続く裏側の扉。
入口の腰掛け。
上から見ると、市場は大きな絵のようだった。
雨上がりの匂いまでは見えない。
でも、どこに匂いが残っているかはわかる気がした。
案内所の人が端末を見た。
「茶色の布袋、ひとつ届いています」
磁馬の目が大きくなる。
「ありますか」
小さな引き出しが開いた。
そこに、小銭袋があった。
少し濡れている。
けれど、口は閉じている。
磁馬は両手で受け取った。
「これです」
声が、とても静かになった。
ナツメが息を吐く。
「よかった」
ハルトも小さくうなずいた。
「入口のパン店の客が拾ったらしい」
磁馬は小銭袋を胸に当てた。
「助かった」
そして、二人に深く頭を下げた。
「ありがとう」
ナツメは手を振った。
「雨上がり包み、まだありますよ」
磁馬は顔を上げた。
「買う」
ナツメは笑った。
三人は香り野菜の店へ戻った。
ナツメの店は、葉の匂いが強かった。
雨を含んで、少し甘く、少し土に近い。
ナツメは蒸し器から小さな包みを出した。
緑の葉に包まれた、丸い食べ物。
湯気が立つ。
磁馬は小銭袋から薄い札を取り出し、支払った。
今度はすぐに袋を閉じ、鞄の奥へ入れた。
一つ。
二つ。
三つ。
留め具を確かめる。
ナツメが言った。
「今度は大丈夫そうですね」
「たぶん」
「そこは絶対って言ってほしいです」
磁馬は雨上がり包みを両手で持った。
一口食べる。
葉の香り。
温かい生地。
中のやわらかい具。
雨のあとに少し冷えた体へ、じんわり入っていく。
磁馬は目を細めた。
「うまい」
ナツメは嬉しそうに笑った。
「よかった」
ハルトは少し離れた場所で清掃機を背負い直した。
磁馬は包みを食べ終えると、スケッチ帳を開いた。
今度こそ描く。
雨上がりの未来市場。
入口の濡れた床。
香り野菜の葉。
清掃機の通ったあと。
水路の裏側。
案内所から見た市場。
ナツメの緑の上着。
ハルトの灰色の作業服。
戻ってきた小銭袋。
湯気の立つ雨上がり包み。
匂いそのものは描けない。
だから、匂いに気づいた人の顔を描く。
濡れた床を避ける足を描く。
湯気を追う目を描く。
葉を持ち上げる指を描く。
線が増えるたび、市場の中に残っていた雨が紙へ移っていく。
ナツメは横で見ていた。
「それ、市場?」
「うん」
「でも、なんか匂いがしそう」
「そう見えたなら、よかった」
紙の中で、床の水滴がほんの少し乾いていく。
葉の先の粒が小さくなる。
湯気が上がる。
人の足跡が薄くなり、また別の足跡が重なる。
ハルトも近くに来た。
「動いている」
磁馬はペンを止めずにうなずいた。
「雨上がりだから」
ナツメが小さく笑った。
「雨上がりだからって、普通は絵は乾きませんよ」
「この絵は、乾きたいのかも」
磁馬は最後に、小銭袋を描いた。
通路の端に落ちた小さな袋。
誰かの手に拾われる袋。
案内所で待つ袋。
磁馬の手に戻る袋。
同じ絵の中で、小銭袋は何度も迷い、何度も帰ってきた。
描き終えるころ、市場の匂いは変わっていた。
雨上がりの強さは薄れ、いつもの市場の匂いに近づいている。
けれど紙の中には、止んだばかりの雨が残っていた。
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚には、ナツメの店を描いた。
葉を持ち上げるナツメ。
湯気の中の雨上がり包み。
もう一枚には、清掃機を背負うハルトを描いた。
床の水を消しながら、落とし物を見つける目。
二人に渡す。
ナツメは絵を両手で受け取った。
「これ、店に飾っていいですか」
「うん」
ハルトはしばらく絵を見ていた。
「濡れた床が残っている」
「消す前の床」
「悪くない」
ハルトはそう言って、作業服の内側へしまった。
磁馬は鞄を持った。
小銭袋があるか確かめる。
ある。
スケッチ帳。
ある。
ペンケース。
ある。
訳機。
ある。
雨上がり包みは、もう食べた。
磁馬は市場の出口へ向かった。
ナツメが手を振る。
「また雨上がりに来てください」
「うん」
「次はなくさないでください」
「気をつける」
ハルトは遠くで一度だけ手を上げた。
市場の外へ出ると、雨は完全に止んでいた。
道は乾き始めている。
建物の端から落ちる水滴も、間が長くなっている。
磁馬は振り返った。
未来市場の屋根が、やわらかく光っている。
中ではまだ人が動き、湯気が立ち、葉が揺れている。
磁馬はスケッチ帳を抱えた。
紙の中では、雨上がりの匂いがまだ続いている。
濡れた床。
香り野菜。
水路。
小銭袋。
包みの湯気。
見えないものほど、探すのに時間がかかる。
でも、探した時間ごと描けば、
少しだけ残せる。
磁馬はそう思いながら、乾き始めた道をゆっくり歩いていった。
うらそ茶
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