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第12話:雲の記憶図書館
天球中央域の中空層には、“触れると記憶が読める雲”が存在する。
正式名称は《雲膜反響層》、通称**「記憶雲」**。
古くは“泡水が過去を集めた空の図書館”として、伝承の中にだけ語られていた。
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この記憶雲の調査に派遣されたのが、雲解析士補《ミレ・クレル》。
17歳、白金色の長髪は左右に分かれて風をよく受け、
瞳は雲光を反射する曇。
彼女の作業服は《フロートル社》開発の“感応泡織布”──
感情によって素材が変色し、読んだ記憶の種類によって袖が膨らむ設計。
ミレは浮力平均よりやや高く、階層都市《クラレーン》でもっとも風に乗る速度が速い人物のひとり。
「風の子」と称される彼女は、自身の記録にも誇りを持っていた。
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記憶雲の接触には特別な装置《ソラー社製:メモリアルミラー機構》が必要。
これは雲の粒子に含まれた泡情報を“共鳴音”として可視化するもので、
映像ではなく感覚そのものとして再現される。
初回接触でミレが触れた雲は、**“海に立つ感覚”**を返してきた。
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泡に触れると、水の中にいるような冷気が全身を包み、
“溶ける”前の記憶が流れ込んでくる。
それは、ミレが生まれる前の世界。
彼女ではない誰かの、名前すらない想いだった。
「……わたしは、誰?」
戻ってきたとき、彼女は自分の泡記録が一部、空白になっていることに気づいた。
フロートル本部は即時に接触を中止。
雲記憶は「安全域を超えると現在の自己を浸食する」と判断された。
月水官は言う。
「記録は、星に残すもの。 雲は“溶けきらなかった言葉”。 読む者は、それと混ざってしまう。」
—
ミレは、それでももう一度雲に触れた。
「私の記憶は私だけのもの、じゃなかったのかもしれない。」
雲の中で、誰かの名が聞こえた。
それは、《地球語のような響き》だった。
「Ctrl」「Alt」「M」……記号のような、祈りのような名。
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ミレは、記録を取らなかった。
かわりに泡をひとつ残した。
「名前は、きっと風に残る。」
その泡は風に乗って昇り、雲へと消えた。
それが誰の記憶だったのか、
彼女が誰だったのか──
泡も記録も答えは返さない。
ただ、彼女の浮力がほんの少しだけ減っていた。