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あれから数日が過ぎた。
尊さんは変わらず職場で淡々と仕事をこなし、私生活でも大きな変化はないように見えた。
その落ち着いた佇まいは、まるで何事もなかったかのようにすら感じさせた。
(でも、あの話をしてから、尊さんの様子は元に戻っている気がした)
数日前の、あの少しばかり重い告白。
尊さんが見せてくれた弱さや、過去の経験。
それを共有してくれたという事実が、俺たちの間に見えないけれど確かな繋がりを作ったような気がする。
少なくとも、今の尊さんは以前のようにクール且つ穏やかで、少しだけ、俺に甘い気がするのだ。
◆◇◆◇
そして、今日は待ちに待った週末の金曜日。
夕暮れの街は帰路を急ぐ人々で溢れている。
雑踏の中で、尊さんの背中を追いかける俺の足取りはいつもより軽い。
ビル群から漏れる灯りが舗道を琥珀色に染め、冷たく乾いた風が頬を撫でる。
「尊さんっ、今日もお疲れさまでした」
隣に並び、精一杯の笑顔で声をかける。
「あぁ、お前もお疲れ」
尊さんはこちらを見ずに、前を見据えたまま短く答える。
それでもその声には疲労の色は感じられない。
「そうだ、尊さん!」
急に思い立って声を上げた。
「ん?」
尊さんがわずかに顔を傾ける。
「今日華金ですし……久しぶりに尊さんの家で飲みませんか?」
自分の提案に、心の中で期待と緊張が半々に渦巻く。
「…いいな、せっかくだしパエリアでも作ってやるよ」
尊さんの返事に、思わず心の中でガッツポーズをした。
「本当ですか!?尊さんのパエリア大好きなので嬉しいです!」
尊さんの手料理は、本当に絶品だ。
特にパエリアは、魚介の旨味が米一粒一粒に凝縮されていて、何度食べても感動する。
尊さんの口元がわずかに緩んだ。
その小さな笑顔を見るだけで、俺はとてつもなく満たされた気持ちになる。
「材料はいつものスーパーで買うか」
「はいっ!あとワインも開けません?」
気分が高揚して、更に欲張った提案をする。
「そうこなくっちゃな」
尊さんがふっと笑う。
この瞬間のやり取りが、俺にとっては何よりも代えがたい週末の始まりだ。
駅前のスーパーは金曜の夜らしく賑わっていた。
買い物かごを提げた尊さんの後ろを俺が小走りで追う。
カゴの中には、既にいくつか新鮮な野菜や鶏肉が入っている。
ワイン売り場で立ち止まると、尊さんが二本のボトルを手に取った。
「赤とロゼ、どっちにする?」
「ん~、今日はロゼがいいかもです。パエリアに合いそうですし!」
「お前本当に舌が肥えてきたな」
褒め言葉のようで、少し呆れたような尊さんの口調に、嬉しさが込み上げてくる。
「えへへ…尊さんのお陰ですよ!」
これは本当にそうだ。尊さんと一緒にいるようになってから、俺の生活は豊かになった。
食に対しても、美意識に対しても、全て。
会計を終えて袋を受け取る。
重たい方の袋は当然のように尊さんの手に渡る。
無造作に提げられたその手のひらの厚みと温度を想像して胸が疼く。
(今日も、一緒に過ごせるんだ)
◆◇◆◇
帰り道
信号待ちをしている間。
横断歩道の青を待つ尊さんの横顔を盗み見る。
鼻筋が通って、少し疲れているはずなのに凛とした横顔。
(……尊さん、楽しそうにしてる。ふふっ、嬉しいな)
数日前の告白で垣間見た傷はまだ他にもありそうだった。
彼の過去は俺には全てわからないけれど、俺が彼の隣にいることで、少しでも彼を笑顔にできるなら。
でも、「俺の居場所なんだよ」と言ったあの声が今も耳に残っている。
俺が彼の居場所の一つになれたという
それほど、尊さんに信頼されているのが嬉しかったということなのかもしれない。
◆◇◆◇
数十分後、尊さんの家に到着後。
マンションのエレベーター内。
狭い空間で隣に立つ尊さんの呼吸が近く感じられる。
肩が触れ合うか触れ合わないかの距離に、心臓の鼓動がわずかに速くなる。
「恋、明日は休みだろ。久しぶりに泊まっていくか?」
尊さんが不意に囁くように尋ねた。
「っ……!はい!ぜひ!」
即答だった。
こんな嬉しい誘いを断る理由なんて、どこにもない。
◇◆◇◆
玄関で靴を脱ぎ、家の中へ。
尊さんがキッチンへ向かいながら言う。
「じゃあ、パパっと作っちまうから、恋は食器出して、ワインの準備しててくれるか?」
「はいっ!任せてください!」
俺にできることは何でもしたい。
この空間で、尊さんの役に立てることが、たまらなく幸せだ。
「頼むぞ……っと」
コートハンガーにスーツジャケットを掛けると、尊さんのワイシャツの袖が覗いた。
無造作に捲り上げられた生地の下から現れる腕は存外に逞しい。
普段オフィスで纏う上品さとは別の、男性的な骨格が見てとれる。
その仕草一つ一つに、なんだかドキリとしてしまう。
「お前も適当に脱いどけ」
尊さんが振り返り、俺に指示する。
「あっ、はい!」
(そういえば上着のままだった)
自分のダウンコートを玄関脇のラックに掛けに行く。
尊さんの家に着いた途端に、いつも気が緩んでしまう。
キッチンに戻ると、尊さんは既に鍋を火にかけていた。
換気扇が低い唸りを響かせ、オリーブオイルの芳醇な匂いが鼻腔をくすぐる。
この匂いが、尊さんの家に来たという実感を高めてくれる。
俺はハッとし、尊さんの指示通りまずは食器棚に向かう。
シンプルで使い込まれた食器たちが整然と並んでいる。
ここにも尊さんの几帳面な性格が表れていた。
(えっと……グラスは、これだ)
ワイン用の細長い脚付きグラスを取り出す。
尊さんは赤ワインが好きなのでいつも選ぶものは深いブルーの脚を持つペアグラスだ。
慎重にトレイに乗せながら考える。
(お皿は大きめのがいいよね?パエリアはボリュームあるし……)
手の平よりやや広い陶器のプレートを選ぶ。
角の部分が優美に波打ったデザイン。
尊さんが前に「これが一番料理映えする」と言っていたものだ。
次にワインセラーへ。
ガラス扉を開けると冷気が顔を撫でる。
瓶を取り出しラベルを確かめる。
「うん、ロゼ……よし」
今夜の主役のパエリアと、それに合わせるワイン。
完璧な組み合わせだ。
トレイに乗せたグラスとプレート。
そしてワインを抱えてキッチンに戻ると、俺は丁寧にテーブルに食器を並べる。
ワインオープナーも戸棚から取り出し、テーブルに置く。準備は万端だ。
すると、丁度尊さんから「よし、できたぞ」と声がかかった。