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#海辺の町
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翌日の昼、玄関ホールへ艶のある黒塗りの車が滑り込んだ。ドアが開き、降りてきた男は港の風景にまるで興味のない顔をしていた。仕立てのいい薄灰色のスーツ、磨きすぎた靴、笑っているのに冷えた目。カーデン商会の買収責任者、アルノー・カーデンだった。
セルマは珍しく自分から数歩進み出て、彼を迎えた。ベジラまで普段より柔らかい声を使っている。
ディアビレは給仕盆を持ってホールの端に立ちながら、その様子を見ていた。アルノーは壁に飾られた古い海図にも、ロビーの窓から見える水平線にも一瞥しかくれず、すぐに数字の話へ入る。
「歴史は宣伝文句になりますが、採算は別です。老朽化した喫茶室は撤去、裏手の倉庫群も整理。土地の導線をすっきりさせれば、富裕層向けの新棟が建てられる」
撤去。整理。その言い方の乾き具合に、ディアビレの指先が冷えた。ルナ・マグも、人の出入りも、長年ここで働いてきた者たちも、彼の口の中では障害物と同じ重さでしかない。
「匂いも変えたいですね」とアルノーは続けた。「この港町は少し生活感が強い。もっと洗練させた方が単価が上がる」
ディアビレは思わず口を開いていた。
「その匂いが好きで来るお客様もいます」
場の空気がぴたりと止まる。セルマの視線が突き刺さった。けれど、もう止まれなかった。
「海の塩の匂いも、古い木の匂いも、深夜のコーヒーの匂いも、ここでしか残らないものです。全部削ったら、別のどこかと同じになります」
アルノーは少しだけ笑った。人を褒める時の笑いではなく、想定外の雑音を面白がる時の笑い方だ。
「現場の方は感情が豊かだ」
その瞬間、ディアビレの前にジナウタスがすっと立った。背中越しの声は静かだった。
「まだ売ると決まったわけじゃない」
アルノーの目が、初めて値踏みするように細められた。