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第5話 霧の渓谷
大学を休学中の青年、雨宮翔。
二十歳、やや長めの髪が無造作に額へかかり、痩せぎすの体に登山用の深緑のパーカーを羽織っている。
目は落ち窪んで、眠れない夜を過ごした跡が濃く残っていた。
山登りを終えた日の帰宅後、翔の部屋の郵便受けに、濡れたような赤いきっぷが差し込まれていた。日付は翌日。好奇心に突き動かされ、彼は山へ戻った。
バスはやがて舗装の切れた道を走り、深い霧に包まれた渓谷で止まった。
降り立つと、足元には濡れた岩肌と苔、霧の向こうには吊り橋がかかっている。
翔は肩にかけたザックを直し、ためらいながら橋を渡った。
すると橋の中央で、霧の中から人影が現れた。
それは背丈も服装も、まるで自分と同じ──顔だけが“白紙のように”のっぺらぼうだった。
「……誰だよ」声をかけても、返事はない。
ただ、その影は赤いきっぷを指先でひらひらさせ、翔の足元へ落とした。
拾い上げた瞬間、橋の下から轟音が響いた。霧が裂け、渓谷の底に無数の石碑が並んでいるのが見えた。
どの石碑にも、日付と名前が刻まれている──昨日までは存在しない“未来の死者名簿”のように。
そこには翔自身の名前もあった。
しかも日付は、今日の日付。
慌てて顔を上げると、のっぺらぼうの影はもういない。吊り橋は揺れていないのに、翔の赤いきっぷだけが風に煽られるように震えていた。
次に気づいたとき、彼は自室のベッドで目を覚ました。
机の上には、霧に濡れた赤いきっぷと、小さな石のかけらが残っていた。