テラーノベル
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夜が短く感じられた。
遥は同じ通りを、同じ時間に、何度も歩いた。ネオンの光が濡れたアスファルトを切り裂き、人々の声が薄く波打つ。自分を確かめたい衝動が胸を占め、足は知らない空間へと向かっていく。
最初は言葉だけだった。
「遊ばない?」と、すすり泣くように放り投げる台詞。相手は笑い、反応がある。肩に触れられ、腕を引かれ、雑に押し込まれる瞬間――その手触りは記号だった。遥は意識を外へそらし、心を小さな板で覆うようにして現場をやり過ごした。終わったあとに残るのは、燃えかすのような虚脱と、ある種の満足。満足は短く、すぐに嫌悪が追いつく。
二度目、三度目と回数を重ねるごとに、相手の顔は溶けていった。名前を覚えるほどの情感は湧かなかった。笑い声も、罵声も、朝日の下で消える記号に過ぎない。それでも、毎回同じ儀式を繰り返すと、遥の内部に小さな穴が開いた。穴は見る者にとっては見えないけれど、遥にははっきりと感じられた。穴の周りの皮膚は赤く、痛みは癒えず、心はますます軽く薄くなる。
「誰かに安く売ることで、本当に誰にも必要とされない自分を証明できる」
――そう呟きながら、遥は自らの価値を削っていった。相手がどう思うかは問題ではなかった。重要なのは、その行為が持つ「証明力」だけだった。拒絶されるならそれでいい。受け入れられるならそれでいい。ただ、どちらでも「俺は裏切られる」「俺は消える」という先入観が現実に戻る。どちらの結果も、遥にとっては「予期された真実」の確認だ。
朝になると独り、ぼんやりと荒れた鏡をのぞき込む。髪は乱れ、唇に古い味が残る。服の襟元に付いた匂いを嗅ぐと、胸の奥が絞られて、思わず嘔吐のような吐き気がした。誰にも言えない譴責が、身体のあちこちに暗い印を残す。痣がふくらむ箇所、夜の凍てつく寒さで赤くなった掌、そして心のどこかに刻まれた「価値の低さ」。これらが、遥の自己評価をさらに押し下げた。
周囲の人間関係もだんだん希薄になった。日常会話の合間に差し込まれる視線を、遥は勘ぐる。
「あいつ、誰と寝たんだ?」という噂の気配。肩をすくめる無関心。いくつかの顔が冷たく通り過ぎると、それは確信へ変わった。自分はもう戻れない。戻るべき場所など初めからなかった。
行為そのものが過激になるにつれ、遥の感情は単純化していった。疼き、耐え、耐えたあとに襲う震えと虚無。その繰り返しの中で、かつて渇望した「触れられる温もり」は、いつしか刃となって胸を割った。
夜ごとに身体を差し出す行為は、外側に向けられた自責であり、内側へ向かう破壊願望でもあった。
「誰かが簡単に扱える自分」であることを確認することで、遥は、自分の恐れ—“愛されると裏切られる”という信念—を補強していった。
ある朝、殊更に冷えた風が吹いた。遥はベンチの背に突っ伏して、目の端が赤く腫れていた。昨日の相手の顔は、もう思い出せない。だが、胸に残った感触は生々しく、その重さが抜けない。スマートフォンには未読のメッセージがいくつかある。誰かの誘い、誰かの軽口、何の意味も持たない通知。遥は指でそれらを握りつぶすように消していった。指先にはまだ油断の匂いと粘りが残っている。
夜の街での行為は、既に単発の出来事ではなく連鎖になっていた。驚くほど無感覚に――呼吸をつなぐように――遥はまた声をかける。「遊んでみる?」と。返事が来ると小さく肯いて、知らないアパートの明かりの下に入る。扉が閉まる音。鍵が回る音。行為の最中、遥は自分の心臓の音さえ遠のくような感覚に陥る。終わった後の孤独は、儀礼のように正確だった。衣類を直し、軽く笑い、無言で出て行く。相手の寝息が剥がれ落ちたあと、遥はひとりで冷たい床に座る。身体の上に残った余韻を、どう処理すればいいのか分からない。
この連鎖が続くうち、遥は「誰かに触れられること」に関して奇妙な分別を始めた。純粋な拒絶を期待する相手、雑で冷たい扱いしか期待しない相手、さりげなく優しげに見せるが実際は消耗させる相手。彼は無意識に、最も「自分を証明してくれる」相手を選んでいた。結局、「扱いの軽さ」という尺度で自分の存在価値を測るようになったのだ。
やがて身体の回復が追いつかなくなり、翌朝の足取りはさらに重くなる。眠りは浅く、食事は欠け、人間関係は断片だらけ。だが、行為の連鎖は止まらない。止める理由がなかった。日下部の言葉が、時折ひりついて蘇る。彼の「選ぶ」という言葉を、遙は何度も自分で壊そうとした。選んでもらえるのなら、それはきっと嘘だと確かめたかったから。
夜の連続は、やがて臓腑にまで及んだ。遥は自分の体の変化を恐れながらも、そこに安心を見出すようになっていた。安心とは、生存を確認するための冷たくて小さな合図に過ぎない。誰かの手が自分に触れる—それがたとえ軽蔑や消費の間隙であっても—その記号が確認できれば、遥はまた眠ることができた。翌朝、目を開けた時に確かめられる傷がある限り、彼は自分がまだ「ここにいる」ことを理解できたのだ。
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