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夕方の教室は、放課後のざわめきがすっかり引いた後だった。窓から差し込む光が赤く細長く伸び、机の影を静かに重ねている。
黒板の匂いと、少しだけ乾いた空気。
そんな場所に、扉をそっと開ける音が響いた。
蓮司は机に座り、片足を投げ出してペンを回していた。
誰かが来る気配に、ゆっくりと顔を向ける。
「……またか。今日は多いな」
飄々とした声。
それでも、どこか待っていたような口調だった。
入ってきたのは、少し猫背の少年。
制服は着崩していないのに、どこかだらしなく見える。
目の焦点が合わず、落とし穴を避けるように床を見ていた。
「……相談、していい?」
蓮司は軽く肩をすくめる。
「勝手に座れ」
少年は苦笑もできず、机の前に腰掛けた。
指先が小刻みに揺れている。
「“大丈夫”って言葉がさ……嘘になっていく」
出てきた声は、ひどく掠れていた。
蓮司は眉を上げることもしない。ただペンを止めた。
「へぇ。嘘つきの自覚が出てきたわけだ」
皮肉じゃない。
蓮司の声は、どれもただの事実を並べるように静かだった。
少年は唇を噛む。
「嘘ついてるつもりなんか、なかったんだよ。
ほんとに大丈夫な瞬間も、たまにはあったし」
肩が落ちていく。
「でも……気づいたら、“大丈夫”って言ってる自分の声のほうが、
本当の気持ちより先に出てくるようになった」
蓮司は少し目を細めた。
「便利な言葉だからな。“大丈夫”は」
少年は拳を握った。
「気づいたら……心の声が、どっか行った。
何がつらいのかも、何が痛いのかも……
何を感じてるのかすら、よく分からなくなってきて」
胸に手を当てる。
でも、そこに何もないみたいに。
「ほんとは……誰かに気づいてほしかったんだと思う。
でも言えなくて……。
言ったらもっと距離ができそうで……」
その瞳は、どこにも居場所を見つけられない迷子の色だった。
蓮司はあくびすらしそうな顔で、ひと言。
「そりゃそうだろ」
少年は顔を上げる。
責められると思ったその言葉は、全く違う意味を含んでいた。
「“大丈夫”って言えば、周りは安心して去っていく。
それはお前が望んだ結果で、
お前が一番最初に自分を放ったってことだ」
淡々と、だが重く。
少年は言葉を失う。
蓮司は続けた。
「人が“気づいてほしい”と願うとき、
同時に“気づかれたくない”とも願ってる。
わかってほしいけど、触れられるのは怖い。
救われたいけど、弱い自分を見られたくない。
その矛盾に、人は慣れる」
ペンがくるりと回る。
「慣れた頃には、自分の声は消えてる。
だから、その状態は普通だ」
蓮司は少年に向けて、指先で机をトントンと叩いた。
その音は妙にやさしかった。
「なぁ、お前。
“苦しい”って言うのが下手になっただけだろ」
少年の喉が揺れる。
「苦しいって言えたら、誰かが止まってくれるかもしれないから。
気づかないふりされたら、死にたくなるから。
だから言わなかった。そうだろ?」
図星すぎて言葉が出ない。
少年はただ、視線を落とす。
蓮司はペンの回転をふっと止めて、窓の外を見る。
夕陽が沈みかけていた。
「でもな。
声が聞こえないなら、また探せばいい。
消えたわけじゃない。黙ってるだけだ」
少年は小さく息を呑む。
「黙っていた自分を責めるなよ。
黙らせたのは、世界のほうなんだから」
蓮司は初めて、少しだけ表情を緩めた。
「“大丈夫じゃない”なんて言葉、
気に入った相手にしか言えないだろ?」
少年は、驚いたように蓮司を見つめる。
「だから――俺に言いに来たんだろ。
それならそれで、十分だ」
静まり返った教室に、心臓の音だけが少し強く響いた。
蓮司は立ち上がり、伸びをした。
「人に頼るのは勇気じゃない。
心を失わないための技術だ。
練習すりゃいい」
少年は小さく、でも確かに頷いた。
「……じゃあさ」
震える声で、ほんの少しだけ。
「大丈夫じゃない、かも」
蓮司は笑わない。
けれど、その目はどこまでもやわらかかった。
「よく言えたな。
……今日はそれで合格だ」
夕陽が完全に沈む前、
その言葉は少年の胸に、じんわり灯りを落とした。