雨は止んでいた。
朝の光がまだ濡れた校庭に反射し、教室の窓辺は少しだけ眩しい。
「天野、これプリント。昨日の分」
クラスの男子・江藤が、朔の机へ近づいてきた。
気さくな笑顔。人懐っこい声。
朔は驚きながらも「ありがとう」と微笑み返す。
「風邪大丈夫? あんま無理すんなよ」
「うん、もう平気」
その何気ない会話が、ほんの少し嬉しい。
自分に向けられる優しさが、普通の距離感が――少しだけ。
だが、朔は気づいていなかった。
背後に、視線が刺さっていることに。
「……楽しそうだな」
低く、濡れた声。
振り向くと、晴弥が立っていた。
不機嫌、という言葉では足りない。
彼の瞳は曇りを含んだまま、江藤を真っ直ぐ射抜いている。
「別に。普通に話してただけ」
朔はなだめるように言った。
だが晴弥は言葉ではなく、その手で感情を語っていた。
握りしめた拳が、白く強張っている。
まるで――
手からこぼれる何かを必死に掴みとめるように。
「神崎、そんな怖い顔すんなって」
江藤は苦笑まじりに言うが、晴弥は視線を逸らさない。
「……別に。用が済んだなら離れろよ」
その声音は冷たすぎて、教室の空気ごと凍らせた。
「ちょ……晴弥!」
朔が慌てて立ち上がると、江藤は肩をすくめて去っていった。
残った沈黙。
晴弥の呼吸が、わずかに荒い。
「機嫌、悪い……?」
問いかけても、はっきり否定は返ってこない。
「……お前、あいつといたほうがいいんじゃねぇの」
視線が水滴のように揺れ、朔の顔をまともに見ようとしない。
朔の胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「なんで、そんなこと言うの」
「……知らねぇよ」
知らないはずがない。
晴弥自身が一番よく知っている感情――
嫉妬。
放課後、校門前。
昨晩の雨が残した水たまりに、三人の影が映る。
朔、晴弥、そして少し離れたところに江藤。
その影を見て、晴弥はわずかに歯を噛みしめた。
朔は気づく。
晴弥の指先が、また強く握られていることに。
「……嫌だった?」
小さな声。
晴弥の肩がわずかに震える。
「お前が……他のやつに笑うの」
その告白は雨よりも重かった。
朔は言葉に詰まり、ただ晴弥の手元を見つめる。
拳に入った力の強さ。
それは無愛想なんかじゃなく、幼いほどの必死さ。
江藤が明るく声をかけてくる。
「じゃあ天野、また明日な!」
朔が小さく手を上げると、晴弥の拳がさらに強張る。
影の中で、嫉妬の色だけが浮き上がっていた。
「……晴弥」
名前を呼べば、彼は一瞬だけ朔を見る。
視線が絡む。
離れたくないという想いが、互いの眼差しに溢れる。
なのに晴弥は、そっと踵を返した。
「帰るぞ」
その背中は、不器用なほど真っ直ぐで。
朔は追いながら、心に芽生える感情を押さえられなかった。
――嬉しい。
――でも、不安。
水たまりを踏むたび、影は揺れて形を変える。
だがひとつだけ変わらないことがある。
晴弥の嫉妬は、朔だけに向けられている。
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