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#大人ロマンス
桃下結衣
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彼の姿を目で追うにつれ、心臓の拍動が速まる。
大きく息を吸い込んだ時、『自分の首は、自分自身で守って下さいね』――不吉な言葉が流れ込んだ。
「……え? なに?」
眉間に寄せた皺を深くして、近づいてくる夫から咄嗟に視線を逸らした。
『私はあなたに大きなチャンスを譲ったんです。あの事実が明るみに出れば、亜紀先生も無傷じゃ済まないということをお忘れなく』
あの事実が明るみに出れば?
ここで私が楓を裏切ったなら、どういうことになるのか――
私を脅し、「必ず目的を果たせ」と念押ししているのね。
そして自分は、その様子を高みの見物で楽しんでいるからと――。
胸に渦巻く感情を押し殺し、唇を噛んだ。
「何だ、俺の方が早く来るつもりだったのに。待ったか?」
夫は席に到着するなりそう言って、私に微笑みかけた。
「……ううん、私もついさっき来たところ」
彼女と繋がったままの携帯電話をさりげなくテーブルの隅に伏せ、口元に笑みを貼り付けた。
楓はきっと、自分が描いたシナリオの実現を期待して愉悦に浸っているに違いない。
「――まさか、亜紀とここで食事をする日が来るとは思ってもみなかった。雰囲気があっていい店じゃないか」
ワイングラスから唇を離した彼は、私に微笑みを向け続けている。
「……ええ、そうね」
――あなたが褒めるこの店を用意したのは楓。その事実を知ったら、あなたは一体どんな顔をするのかしら。
欲望のはけ口として利用していた女に、妻が加担していると知ったら、そんな飄々としていられないでしょうね。
今から起きようとしていることは、あなたにとって想定外の出来事。――それは、私も同じ。
前菜として添えられた帆立のマリネを口に入れ、苦笑する。
「――ああ、そういえば」
食事を進める夫が口火を切った。
「一昨日、亜紀が外科転科させた患者。……那須さんだっけ? 俺がバイパス手術に入ってやるよ」
「えっ……遼が? だけど、遼は主治医じゃないでしょ?」
「その主治医にオペの助手を頼まれたんだ。既にカンファで決定した。俺が助手をするってことは、俺がオペレーターをしたのと同然。外来から亜紀が診てた患者だろ? 俺が責任もって社会復帰させてやるから、安心しろ」
以前と何も変わらない、得意げな口ぶり。
こんな状況でも、交わされるのは仕事の話。結婚する前からそうだ――私達の話題の中心は、常に仕事にあった。
夫婦で同じ職種であれば、ましてや同じ職場であれば当然だと思っていた。
ただの恋人同士なら、理想の自分を演じることもできる。夫婦であろうとも、家庭の中だけなら伴侶が知らない自分を作り出すこともできる。
けれど職場にまで互いの存在を感じると、化けの皮を被ることすら難しい。
医師という職業は特にそうだ。常にすこぶる高いプライドとプライドとのぶつかり合い。ふとした瞬間に本性が剥き出しになる。
隠せない人間性。
今思えば、このねじれた夫婦関係は、腹の中まで覗き見ようとする日常が生み出した、成れの果てなのかもしれない。
曝け出さない自分があるからこそ、平穏な日常を大切に思える。失いたくないと思える。
露骨な不倫でさえ揉み消すことが可能だと高を括っているのなら、それはもう夫婦の信頼関係ではない。終止符への扉だ。
あなたはそれに、今でも気づいていないのね――。
メインの肉料理がテーブルに置かれるのを見て、今にも消えそうなため息を零した。
鴨肉のワイン煮込みを一切れ口に運ぶ。滅多に食べることのないフランス料理だというのに、盛り付けの美しさを目で楽しむどころか、味すら感じられない。
夫のたわいない話に相槌を打ちながらも、私が見計らうのは離婚話を切り出すタイミング。
どの話から切り出したらいい?
私が呼び出したのは離婚話をするためだと、遼だって気づいているはず。それなのに、何事もなかったような態度を見せるのは、あなたも私の様子を窺っているから?
目を光らせ、私の行動を見張っている者は他にもいる。
テーブルの片隅で私に重圧感を与える携帯電話。
彼女はきっと享楽的な笑みを浮かべ、ボーイフレンドと絶品料理を十二分に味わっているのだろう。
右肩後方に感じる忌まわしい視線。
それを意識するほど、どれだけ咀嚼しても喉が詰まりそうになる。飲み込むタイミングを失ったアスパラガスが、口の中に貼り付いているような気がして気持ちが悪い。
それを白ワインで流し込み、心を落ち着かせようと静かに息をついた。
夫の声が途切れた瞬間、店内に流れるクラシック音楽と周囲の人々の話し声が、波紋を打つように耳に流れ込んできた。
ふと顔を上げると、正面にはワイングラスを傾けながら私を見据える夫。
瞬間的に恐怖心と緊張感が交錯し、戸惑う私は、黙り込む彼と目を合わせて顔を強張らせた。
「帰ったんだろ? 田舎に」
脈絡もなく落とされた彼の言葉。
「えっ?」
「田舎に帰って、うだつの上がらない兄貴に会ってきたんだろ?」
「……うだつが上がらないなんて。そんな嫌な言い方しないで。兄は、自分の利益のために借金を抱えたわけじゃない。家族を守ろうとしただけよ」
再会した兄の笑顔が昨日見た出来事のように瞼に映り、次第にフォークを握る手にギリギリと力が入る。
そんな私の表情を見て、夫は生々しい薄ら笑いを浮かべた。
「怖い顔して睨むなよ。ちょっとした冗談だよ、冗談。それに、俺はおまえの家族に関しては敵意を剥き出しにされる覚えはない。返済不要で金を工面してやったんだ。そうだろ?」
返済不要で金を工面してやった――
彼の言葉を心の中で復唱し、口を引き結ぶ。
「兄貴は田舎で何をしてるんだ? 仕事はあるのか?」
「……」
「……おい、亜紀?」
ほとんど手をつけていない料理に視線を落としたままの私。夫は返事をしない私を訝しげに見て、眉根を寄せた。
「――遼のおかげで、あの家を失わずに済んだ。それには感謝してる。だけど、借りたお金は私と兄で全額お返しします。兄は目標を見つけて頑張ってる。もう、心配はいらない」
揺るぎない意志を込めて沈黙を破った。
再び途切れる会話。
重い空気が漂う中で、冷然とした視線が重なり合う。
「金は返さなくていいと言ったはずだ。亜紀の出世払いだと」
「いいえ。必ず全額お返します」
「……どうやって返すつもりだ? 循環器病センターに行くならまだしも、大学病院の安月給で何年かかる?」
夫はクッと喉元で軽く笑い飛ばし、これ見よがしに鴨肉を頬張る。
「循環器センターには行くわ。佐橋主任教授と話はついてる。早ければ六月には異動できる」
「……なに? 六月だと?」
グラスに口をつける彼の喉が、私の言葉で大きく波を打った。
「どうして俺に何も言わずに勝手に動いた?」
「どうして? おかしなことを聞くのね。もともと循環器病センターへの異動は、あなたが強く望んだことじゃない。乗り気じゃなかった私の背中を押したのは、あなたでしょう」
「……確かにそうだが。それならそうと、こっちにも――」
「遼に許しを請うつもりはない。私の人生の選択は私自身で決める。それとも、先手を打たれて何か都合の悪いことでもあるの?」
彼の言葉を打ち消し、顔を曇らせる彼をじっと見つめた。
「都合が悪い? ――そうじゃない。俺はおまえの夫だ。妻の人生の選択において、邪険にされる立場の人間じゃない」
「私はあなたの妻でありながら、結婚生活において邪険にされ続けてきた。私はあなたの部下でも奴隷でもない。夫の顔色を窺って生きるのはもうたくさん。本当の自分に気づかないふりをして生きていくのは、もう嫌なの」
彼の目を真っ直ぐに見つめ、決して感情を乱すまいと慎重に言葉を連ねていく。
そんな私を凝視して、遼は大きく顔を歪めた。
「――浅倉楓の件なら謝る」
「……理由はそれだけじゃない」
「暴力を振ったことも――。あの夜の俺はどうかしていた。おまえを失うのが怖かったんだ。分かるだろう?」
私を見つめる瞳に憂いを浮かべ、声を和らげた。
威圧的な力でねじ伏せることが難しいと判断すれば、瞬時に手の内を変え、甘い言葉で心を縛り付けようとする。
今まで私は、何度この手に惑わされた?
精神に刻まれた後遺症が疼き、胸の奥が染みるように痛い。こうして今でも心をざわつかせる自分を蔑み、嘲笑いたくなる。
「――もう遅いのよ。私の中に残るあなたへの感情は恐怖心。恐怖では心は縛れない。人生には限りがある。もう、私は自由になりたいの」
「自由……?」
「ええ、あなたはあなたの人生を――。あなたが守るべきものは他にあるはずよ」
最後まで言い切って、彼を見つめる目を細めた。
コメント
1件
ああ、ここまで積み重ねてきた緊張が、レストランの一席で一気に表面化した感じですね…。「恐怖では心は縛れない」という亜紀の台詞、重かったです。遼の「謝る」と言いながらも本質的には支配の構図を変えようとしない態度と、楓という第三者の圧力が同時にのしかかる構造が、本当に息苦しいほど丁寧に描かれていて、引き込まれました。設定の使い方が巧みで、読んでいてゾクゾクしましたよ。