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週末の夜。田島は山奥のキャンプ場で、焚き火の前に座っていた。
誰もいない静かな場所。スマホの電波も届かない。だが、それがいい。都会の喧騒から逃れ、ただ一人で過ごす時間が、彼にとって何よりの癒しだった。
「やっぱり、インスタントでも山で飲むコーヒーは格別だな…」
マグカップを傾けながら、田島は満足げに息を吐いた。焚き火のパチパチという音が心地よく響く。火の揺らぎを見つめながら、彼はふと考える。仕事、人間関係、SNSの通知。全部、今だけは遠い。
空には星が広がっていた。雲ひとつない夜空。虫の声が遠くで鳴いている。焚き火の炎が揺れるたび、影がテントの布に踊った。
風が木々を揺らし、葉のざわめきが耳に優しい。田島はその音に身を委ねながら、静かに目を閉じた。
「そろそろ寝るか…」
「いけね…忘れてた」
リュックのポケットから小袋に入った錠剤を取り出す。
そこには、持病のための薬と、最近の体調不良に処方された薬が、あわせて十種類ほど入っている。
「それにしても薬、多くね?」
傍らに置いてあったペットボトルで薬を流し込む。
「まぁ、ソロキャンプも一種の薬だよな…」
アラサーの自分を慰めるように呟く。
「さてと…」
テントの中には寝袋が敷いてある。明日は朝から山を下りる予定だ。コーヒーを飲み干し、田島は立ち上がった。
「その前に…ちょっと出しておくか」
寝る前の習慣。自然の中での立小便も、彼にとってはキャンプの一部だった。焚き火から少し離れた木陰に向かい、田島はチャックを下ろした。
「ふぅ…」
夜風が心地よい。星空の下での解放感。これぞアウトドアの醍醐味。田島は目を閉じて、静けさに身を浸した。
——ズズズッ。
足元の土が、微かに動いた。
「……ん?」
風かと思った。だが、次の瞬間。
ズズズズズッ!
土が盛り上がり、そこから白く細い手がヌッと突き出た。その手が田島の足首を掴む。
「うわっ!?な、なになに!?」
田島は慌てて後ずさる。手は彼の右足首を掴んで離さない。冷たい感触。人間のものとは思えない。骨ばっていて、土にまみれている。
「えっ…人!?いや、違う…これ…ゾンビ!?ゾンビなのか!?」
手はゆっくりと地面をかき分け、顔のようなものが覗き始める。土にまみれた顔。白濁した瞳。だが、どこか整った輪郭。そこから一気に起き上がるが、下半身はまだ土の中だ。長い髪が肩にかかり、服はくすんでいるものの、ワンピースの形を保っていた。
腐敗の痕跡はあるが、全体的に“女性らしさ”が残っている。
田島は混乱しながらも、目が離せなかった。
ゾンビはゆっくりと顔を上げ、かすれた声で言った。
「……水分を感じて、目が覚めたんだ」
田島は一瞬、神秘的な話かと思った。
雨?朝露?それとも地面に染み込んだ夜の湿気?
だが、次の瞬間、脳裏に自分の行動がよみがえる。
(……さっき、ここで立小便したよな)
ゾンビの言葉が、じわじわと意味を持ち始める。
(まさか……俺の小便で目覚めた?)
田島は足元を見下ろし、思わず顔をしかめた。
(いやいや、そんなバカな……でもタイミング的に……)
焚き火の火がぱちぱちと鳴る中、田島は静かに頭を抱えた。
「俺の小便でゾンビが蘇るとか、どんな呪術だよ…」
ゾンビはゆっくりと立ち上がった。その動きはぎこちないが、どこか品があった。肌はまだ人間らしさを保っている。田島は思わず目をそらしそうになったが、どこか目が離せなかった。
「……あなたは、誰?」
ゾンビが口を開いた。声はかすれていたが、柔らかく、女性的だった。
田島は混乱していた。
「俺?田島だけど…っていうか、君こそ誰だよ!?ゾンビなの!?幽霊なの!?それとも、ただの泥まみれの変人!?」
ゾンビはしばらく沈黙した後、ぽつりと呟いた。
「……わからない。自分が誰なのか、思い出せない」
田島は思わず息を呑んだ。ゾンビは記憶喪失らしい。
「え、マジで?ゾンビって記憶喪失になるの?ていうか、ゾンビって記憶あるの?」
ゾンビは首をかしげた。
「私は…生きていたのか、死んでいたのかも、わからない。ただ、目が覚めたら、土の中だった」
田島はしばらく黙っていた。
そして、ふと自分の足元を見た。
(……やっぱり俺の小便かもしれない…)
ゾンビはふと、田島の顔を見つめた。
「あなたは…優しい人?」
「いや、今の状況でそれ聞く!?ていうか、俺、君がゾンビじゃなかったら通報してるからな!?」
ゾンビは微笑んだ。その笑顔は、どこか人間らしかった。
田島はため息をついた。
「……わかったよ。とりあえず、君を放っておくのもアレだし、俺のテントまで一緒に行こう。服も替えなきゃだろ?」
ゾンビは頷いた。
「ありがとう。田島さん」
「名前覚えたの!?ていうか、記憶ないんじゃなかったの!?」
「あなたが言ったから。田島さんって」
「……そっか」
田島は歩き出した。
その後ろを、ゾンビが静かについてくる。
映画なら不気味な音楽と共に、田島が後ろから襲われてもおかしくないシーンだ。
足音はほとんどしない。まるで風のようだった。
焚き火の炎がまだ揺れている。星空は変わらず広がっていた。
田島はちらりと振り返る。ゾンビは、いや、彼女は、どこか不思議な存在だった。
「俺、明日からどうすりゃいいんだよ…」
こうして、奇妙なコンビが誕生した。
ゾンビと田島。記憶喪失と立小便。
すべては、山の中の偶然から始まった……と、田島はこの時、思っていた。