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#糸
#糸
港に響く汽笛は、自由への合図ではなく、地獄への門が開く音だった。 「アメリカで幸せになろう」 ロバートの優しい言葉を信じ、タラップを駆け上がった結を待っていたのは、豪華な客室ではなく、船底の光も届かない湿った檻だった。
「ロバート……? 冗談よね、開けて! 出して!」
鉄格子の向こう側で、ロバートは冷酷な手つきで煙草に火をつけた。 あの青い瞳には、かつての温もりなど微塵もなかった。
「悪いな、結。お前はいい『商品』になる。東洋の美しい糸は、向こうの金持ちが高値で買い取ってくれるんだ」
「どこにいたの」「遠い空の下」
その言葉が、今度は呪いのように結を縛り付ける。 アメリカという「遠い空」は、彼女を救う場所ではなく、彼女を「物」として扱い、尊厳を奪い去る絶望の地だった。
船が揺れるたび、結の心は「ささくれ」だち、ボロボロに引き裂かれていく。 航くんが守り抜いたはずのこの命が、今、名前も知らない誰かの「奴隷」として織り込まれようとしている。
「……航くん。助けて、航くん……!」
暗闇の中で、結は震える手で自分の胸元を探った。 そこには、あの日、航くんの復員服からこっそり抜き取った、あの**「紺色の糸」**が握りしめられていた。
「縦の糸はあなた、横の糸は私」
泥にまみれ、誇りを踏みにじられても、この糸だけは離さない。 たとえ肉体が鎖で繋がれても、心の中に一本の芯(縦の糸)がある限り、私はまだ「人間」でいられる。
船は、日本の岸壁を離れ、波飛沫を上げて進む。 結を売った金で笑うロバートと、檻の中で糸を握りしめる結。 そして、岸壁で一人、動かない右腕を抱えて立ち尽くす航。
二人の糸は、かつてないほど無残に、そして絶望的に引き延ばされていった。