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サンフランシスコからの引き揚げ船を降り、結が踏みしめた日本の土は、まだ焦げ臭い匂いが漂っていた。 3年前、ロバートに騙されて奪われた私の自由。 地獄のような労働と虐待に耐え抜けたのは、ただ一つ、「日本に帰れば、航くんがいる。家族がいる。私の居場所がある」という細い糸のような希望があったから。
「……お母さん? 兄さん?」
かつて実家があった場所には、不格好なバラックが建ち並び、見知らぬ人々が虚ろな目でこちらを見ていた。 家族は、あの空襲の夜に全員、炎に巻かれて消えていた。 私の帰りを待つ人は、この国にはもう一人もいない。
「どこにいたの」「遠い空の下」
異国で震えていた日々、心の中で繰り返した言葉が、今度は自分の故郷で虚しく響く。 私は、ボロボロになった着物の裾を握りしめ、泥道を這うようにして歩き続けた。
その時だった。 黒塗りの高級車が、砂埃を上げて私の横を通り過ぎ、少し先で静かに止まった。
周囲の人々が色めき立つ。 「おい、あの方だ……! 戦後復興の立役者、若き大臣の……」
車から降りてきたのは、仕立てのいい真っ黒な背広に身を包んだ男だった。 かつての復員服の面影はない。動かなかったはずの右腕は、義手なのか、不自然なほど真っ直ぐに伸ばされている。
航(わたる)。
彼は、群がる記者や陳情の人々を冷徹な目であしらいながら、こちらを一度も見ることなく歩き出そうとした。 その姿は、一国の運命を担う「強すぎる縦の糸」そのものだった。
「……わた、る……くん」
私の喉から漏れたのは、枯れ葉が擦れるような、小さな、小さな声。 彼は一瞬、ピクリと足を止めた。 けれど、汚れた顔で道端に座り込む私を、彼は「かつて愛した女性」だとは気づかなかった。
「……人違いだ。行きなさい」
護衛の男に突き飛ばされ、私は泥の中に転がった。 彼の靴音が、遠ざかっていく。 かつて手芸部の部室で、私の指先に触れたあの温かな手は、今はもう、国家という巨大な布を織るために、冷たい鋼鉄へと変わってしまったのかもしれない。
「縦の糸はあなた、横の糸は私」
今の私は、彼が織りなす豪華な絹の布には、決して混じり合うことのできない、泥にまみれた端切れに過ぎなかった。
#糸
#糸