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──日下部が立ち上がる気配がした。
けれど、遥は視線を上げなかった。机に額を押しつけたまま、呼吸だけが震えていた。
「……もういい」
誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。止められたくもなかったし、許されたくもなかった。
ただ、言葉にした瞬間、喉の奥が焼けるように痛かった。
「遥」
その声が、部屋の温度を少しだけ変えた。
静かな呼びかけ。責めるでも、慰めるでもない。ただ、確かに自分を見ている音。
その優しさが怖かった。
日下部の靴音が近づく。遅い、けれど逃げられない速度で。
遥は机の角を握りしめた。
「来ないで」
かすれた声だった。涙はもう出ないのに、瞼の裏が痛い。
「……来ないでよ」
日下部は止まった。けれど、何も言わない。その沈黙が、何よりも苦しかった。
遥はやっと顔を上げる。
その瞳に映ったのは、何も変わらない表情のはずの男。
けれど、ほんの一瞬、彼の指が震えたのを見た。
「なんで、そんな顔するの……」
遥の言葉は、笑いにも泣きにもならなかった。
あの日、怜央菜に言われた言葉が頭の奥でこだまする。
──“誰かの痛みに気づくなら、その手で壊しちゃダメよ”
だから、守らなきゃと思った。
けれど、守ることは避けることと同じになっていった。
「俺、間違ってるのかな」
やっと吐いたその言葉は、空気の中で溶けていった。
返事はない。
ただ、日下部が一歩だけ近づいた。
その足音の分だけ、遥の心臓が跳ねた。
「間違ってない」
低く、ゆっくりとした声だった。
「……でも、正しくもない」
その言葉に、遥の喉が詰まる。
止めようとした涙が、一筋だけ頬を伝った。
止まらないでほしかった。
でも、止まってほしかった。
矛盾の真ん中で、遥はどうにもならない自分を噛みしめた。
日下部の手が、そっと机の上に置かれる。
その距離が、これまででいちばん近かった。
「俺、もうどうしたらいいのか分かんない」
遥の声は小さく、空気に溶けた。
日下部は答えなかった。ただ、その沈黙ごと、遥の壊れそうな呼吸を受け止めていた。