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第1話 新人番号三百二十
朝ではなかった。
夜でもなかった。
時代整理局の中には、そういう時間がよくあった。
窓の向こうに町は見えない。
時計はある。
けれど針は進んでいるのか戻っているのか、三百二十にはまだ見分けがつかなかった。
三百二十は、受付の前に立っていた。
胸につけられた小さな札には、三百二十、とだけ刻まれている。
名前ではない。
あだ名でもない。
今日から三百二十は、三百二十だった。
「背筋が硬い」
後ろから声がした。
三百二十は肩を跳ねさせた。
振り向くと、茶色の長い外套を着た回収員が立っていた。
年齢はわからない。
若くも見えるし、ずっと昔からここにいたようにも見える。
腰の記録筒が、歩くたびに小さく鳴った。
「十八だ。お前の教育係」
「三百二十です」
「知っている。札に書いてある」
十八は三百二十の札を指で軽く叩いた。
こん、と小さな音がした。
「初任務だ」
その一言で、三百二十の指先がそろった。
「はい」
「江戸へ行く」
「はい」
「未来端末が落ちた」
「はい」
「子どもが拾った」
「はい」
「遊んでいる」
「はい」
十八は足を止めた。
三百二十も止まった。
「返事は一度でいい」
「はい」
また言ってしまった。
十八は少しだけ目を細めた。
怒ったのではない。
たぶん、笑ったのだ。
二人は長い通路を進んだ。
壁には棚が並んでいる。
棚には箱があった。
箱には札がついていた。
湯札。
古い切符。
未来の小さな板。
まだ誰も作っていないはずの鍵。
見ているだけで、三百二十の頭は少し重くなった。
「全部、回収品ですか」
「一部だ」
「一部」
「全体を見たら、初日に帰りたくなる」
三百二十は返事を飲み込んだ。
十八はそれに気づいたように、軽くうなずいた。
「時代異物は、大きさで危険が決まるわけじゃない」
十八は歩きながら言った。
「未来の武器ならわかりやすい。危険だ。だが、ただの紙切れでも、持つ者によっては時代を曲げる」
「紙切れがですか」
「未来の試験問題。未来の地図。未来の病の記録。未来の勝敗表」
三百二十は息を止めた。
十八は淡々と続けた。
「だから拾う。戻す。戻せないならしまう」
「見られた場合は」
「記憶処理」
その言葉だけ、通路の空気が少し沈んだ。
三百二十は研修で習っていた。
目撃者の後ろ側に立つ。
声を低くする。
認識の端をほどく。
見た物だけを遠ざける。
全部を消すわけではない。
人の中身を乱さないために、必要な分だけ、そっと外す。
研修の時は簡単に聞こえた。
紙の上では、全部がまっすぐだった。
だが、今から会うのは紙ではない。
子どもだ。
遊んでいる子どもから、未来の端末を取り上げる。
そのうえ、見た記憶を処理するかもしれない。
三百二十の喉が鳴った。
十八が振り向かずに言った。
「怖いか」
「少し」
「それでいい」
「いいんですか」
「怖くない者に任せる仕事じゃない」
十八は足を止めた。
目の前には扉があった。
古い蔵の戸にも見えたし、駅の改札にも見えた。
表面に、細い線が何本も走っている。
その線は地図の川のように曲がり、文字のように交わり、時々、呼吸するみたいに淡く光った。
十八は扉に手を置いた。
「行く前に、ひとつ教える」
「任務手順ですか」
「もっと大事な内規だ」
三百二十は背筋を伸ばした。
十八は低い声で言った。
「磁馬を見かけたら周辺を捜索しろ」
沈黙が落ちた。
三百二十はまばたきをした。
もう一度まばたきをした。
「すみません。今のは」
「内規だ」
「磁馬というのは」
「画家だ」
「画家」
「時代を旅して絵を描く」
「回収対象ですか」
「違う」
「危険人物ですか」
「違う」
「では、なぜ」
十八は扉を開けた。
向こうから、土と川の匂いが流れ込んできた。
「落とす」
「何をですか」
「いろいろだ」
「いろいろ」
「筆、紙、小銭袋、湯札、訳機、たまに昼飯」
三百二十は言葉を失った。
十八は真顔だった。
ふざけている顔ではなかった。
だから余計に、三百二十は困った。
「その人は、回収局で有名なんですか」
「知らない者はいない」
「落とし物で」
「落とし物で」
十八は先に扉をくぐった。
「ただし、磁馬は必ず拾う。そこだけは覚えておけ」
「必ず」
「見つけるまで帰らない」
三百二十は扉の向こうを見た。
江戸の町が、昼下がりの熱を持って広がっていた。
人の声。
荷車の音。
水の匂い。
焼いた餅の匂い。
すべてが生きていた。
三百二十は一歩を踏み出した。
足の下の土が、ほんの少し沈んだ。
時代を越えた感じはなかった。
ただ、知らない町に来たようだった。
それがかえって怖かった。
ここでは、自分だけがよそ者なのだ。
十八は笠を三百二十に渡した。
「かぶれ」
「はい」
「目立つな」
「はい」
「走るな」
「はい」
「返事は」
三百二十は口を閉じた。
十八は満足そうに歩き出した。
江戸の町はにぎやかだった。
魚を売る声が飛び、子どもが走り、店先では団子が並んでいる。
道端の犬があくびをした。
三百二十は思わず周囲を見回した。
研修で見た映像よりも、ずっと近い。
匂いも、音も、人の息も、すぐそばにある。
「対象は橋の下だ」
十八が言った。
「子ども三人。拾ったのは昨日の夕方」
「一晩たっています」
「幸い、起動はしていない」
「なぜですか」
「電力切れ」
三百二十は少しだけ息を吐いた。
「なら安全ですね」
十八が横目で見た。
三百二十はすぐに背筋を直した。
「安全とは限らない、ですね」
「覚えが早い」
「研修で言われました」
「研修で言われたことは半分忘れろ」
「え」
「現場で必要な半分だけ残せ」
十八は人混みを抜け、橋へ向かった。
橋の下には川が流れていた。
広くはない。
けれど水は速く、光を細かく砕いていた。
橋の影に、子どもたちがいた。
三人。
一人は膝をつき、一人は石を積み、一人は何かを両手で持っていた。
三百二十の胸が鳴った。
未来端末。
小さな板。
角が丸く、表面は眠った水面みたいに滑らかだった。
この時代には存在してはいけない物。
子どもの一人が、それを耳に当てた。
「もしもし」
別の子が笑った。
「箱に話しかけてどうすんだよ」
「声が返ってくるかもしれねえだろ」
「じゃあ、川の主に聞いてみろよ」
子どもたちは笑っていた。
三百二十は一歩前に出かけた。
十八の手が、肩を押さえた。
「まだだ」
「でも」
「見ろ」
三百二十は息をひそめた。
端末を持った子どもが、表面を指でこすった。
何も起きない。
またこする。
やはり何も起きない。
つまらなくなったのか、子どもはそれを石の上に置いた。
「なあ、これ売れるかな」
「変な板だぞ」
「変だから売れるんだよ」
三百二十の指先が冷えた。
売られたら、広がる。
大人の手に渡る。
珍品として残る。
誰かが分解するかもしれない。
そこから、時代が少しずつ歪む。
十八が低く言った。
「回収する」
「はい」
「お前が行け」
三百二十は十八を見た。
十八はすでに町人の顔をしていた。
どこにでもいる通りすがりの大人。
それなのに目だけは、回収員の目だった。
三百二十は橋の下へ降りた。
足元の石がころりと動いた。
子どもたちが振り向いた。
「なんだ、お前」
一人が言った。
三百二十は口を開いた。
研修で習った言葉が、頭の中で散らばった。
自然に近づく。
対象を確認する。
所有意識を弱める。
代替物を提示する。
必要に応じて記憶処理。
言葉が出てこなかった。
子どもが端末を抱えた。
「これ、俺らが拾ったんだぞ」
「いえ、その」
三百二十は自分の声が硬いのを聞いた。
子どもたちは目を細めた。
警戒している。
当然だった。
その時、上から声がした。
「それ、落とした人を探しているんだ」
十八だった。
橋の上からではない。
いつの間にか、橋の下へ降りてきていた。
手には小さな紙包みを持っている。
甘い匂いがした。
「何だよ」
子どもが言った。
「飴だ」
十八は紙包みを開いた。
茶色の飴玉が転がっていた。
「その変な板と交換しないか」
子どもたちの目が動いた。
板。
飴。
板。
飴。
「これ、すげえ物かもしれねえぞ」
「すごい物なら、落とした人は困っている」
十八は静かに言った。
「拾った物を返せるやつは、えらい」
その言葉は、説教には聞こえなかった。
ただ、川に石を置くように、そこに置かれた。
子どもは唇をとがらせた。
それから、端末を差し出した。
「じゃあ、返しとけよ」
「もちろん」
十八は端末を受け取り、飴を渡した。
子どもたちは紙包みに群がった。
三百二十は息を吐いた。
回収完了。
そう思った瞬間だった。
「あ」
子どもの一人が、三百二十の後ろを見た。
「さっきの人だ」
三百二十が振り向く。
橋の向こうの道を、一人の男が歩いていた。
茶色の上着。
肩掛け鞄。
片手にスケッチ帳。
周囲を見回しながら、少し困った顔をしている。
十八の表情が変わった。
ほんのわずか。
だが三百二十にはわかった。
「まさか」
「磁馬だ」
十八が言った。
磁馬は橋のたもとで立ち止まった。
鞄を開ける。
中を見る。
閉じる。
もう一度開ける。
顔が困ったまま、さらに困った。
三百二十は思わず言った。
「何か落としましたね」
「見ればわかる」
「回収しますか」
「しない」
「なぜ」
「本人が探す」
十八は端末を回収鞄へ入れた。
「周辺捜索」
「本当にやるんですか」
「内規だ」
三百二十は橋の下を見た。
子どもたちは飴を食べている。
端末のことはもう気にしていない。
記憶処理は不要。
任務は終わった。
終わったはずだった。
磁馬が道端にしゃがみこんだ。
石の間をのぞく。
立つ。
橋の柱を見る。
鞄をまた開ける。
首をかしげる。
十八が低く言った。
「捜索範囲、橋周辺」
「対象は」
「不明」
「不明のまま探すんですか」
「磁馬案件はだいたいそうだ」
三百二十は、初任務の重さが別の形に変わっていくのを感じた。
時代異物の回収。
目撃者対応。
そして、画家の落とし物探し。
それが時代整理局の仕事なのか。
それとも、十八だけが変なのか。
三百二十には、まだ判断できなかった。
磁馬は橋の上に立った。
川を見下ろした。
風が吹き、スケッチ帳の紙がめくれた。
その中に描かれた橋が、一瞬だけゆらいだように見えた。
三百二十は目をこすった。
もう一度見る。
ただの絵だった。
けれど、紙の中の川だけが、ほんの少し流れている気がした。
十八が横に立った。
「見たか」
「絵が」
「深入りするな」
「でも」
「磁馬は回収対象じゃない」
十八は橋の影に目を向けた。
「ただし、周辺は捜索する」
三百二十はうなずいた。
探し物は、すぐに見つからなかった。
橋の下。
石の間。
草の根元。
団子屋の横。
船着き場の木箱の陰。
三百二十は腰をかがめ、何度も地面を見た。
磁馬も探していた。
行ったり来たり。
しゃがんだり、立ったり。
人に聞いたり、また戻ったり。
その姿には焦りがあった。
けれど、いらだちはなかった。
落とした自分に腹を立てているのでもなく、誰かを疑っているのでもない。
ただ、あるはずの物を、ある場所まで迎えに行くように探していた。
三百二十は少しずつ、磁馬から目が離せなくなった。
「十八」
「なんだ」
「あの人は、毎回ああなんですか」
「毎回だ」
「大変ですね」
「本人はそう思っていない」
「なぜわかるんですか」
十八は少し黙った。
「昔、聞いた」
「何と」
「落とした物は、帰り道を忘れているだけだ、と」
三百二十は磁馬を見た。
磁馬は今、犬の前にしゃがみこんでいた。
犬の首元を見て、何かをたずねている。
犬は答えず、あくびをした。
三百二十は笑いそうになった。
緊張していた胸が、少しだけゆるんだ。
その時だった。
橋の上を走っていた子どもが、何かを蹴った。
小さな物がころころと転がり、橋の板の隙間へ落ちかけた。
磁馬が振り向いた。
三百二十も走った。
十八も動いた。
だが一番速かったのは磁馬だった。
磁馬は橋の手すりに片手をつき、身を低くして、それを受け止めた。
小さな筆だった。
使い込まれた筆。
柄には細かい傷がいくつもあった。
磁馬の顔が、ぱっと明るくなった。
「あった」
その声は大きくなかった。
けれど、橋の下まで届いた。
十八が記録筒を開いた。
細い紙に、さらさらと書く。
本人回収確認。
三百二十はその文字を見た。
研修では習わなかった言葉だった。
けれど、時代整理局にずっと前からある言葉なのだと、なぜかすぐにわかった。
磁馬は筆を鞄にしまった。
それから周囲に軽く頭を下げた。
誰に向けたものかわからない。
橋に。
川に。
子どもに。
犬に。
そして、少し離れた場所にいる回収員たちに。
三百二十は息をのんだ。
「気づいていますか」
「たぶんな」
「いいんですか」
「いい」
十八は記録筒を閉じた。
「磁馬は言わない」
「なぜ」
「こちらも言わないからだ」
三百二十は磁馬の背中を見送った。
茶色の上着が人混みに混ざっていく。
スケッチ帳を抱えたその姿は、どこにでもいる旅人のようだった。
けれど、時代整理局で知らない者はいない。
落とし物の画家。
必ず見つける人。
「三百二十」
十八が呼んだ。
「はい」
「初任務、終了」
その言葉で、三百二十の膝から力が抜けそうになった。
だが倒れなかった。
回収鞄の中には未来端末。
記録筒には本人回収確認。
心の中には、まだ名前のつかない不思議な感じが残っていた。
帰り道、扉は橋の影に開いた。
町の人には見えない角度。
川音にまぎれる場所。
十八が先に入る。
三百二十は一度だけ振り返った。
江戸の町は変わらずにぎやかだった。
子どもたちは飴を食べ終え、石を積んでいた。
犬は寝ていた。
橋の上には、もう磁馬はいなかった。
時代は守られた。
誰にも知られず。
大きな拍手もなく。
ただ、落ちていた物が、あるべき場所へ戻った。
三百二十は扉をくぐった。
時代整理局の通路へ戻ると、時計の針はまだ変な向きをしていた。
進んだのか、戻ったのか、やっぱりわからない。
だが三百二十の中では、何かが少しだけ進んでいた。
受付の前で、十八は端末を回収箱へ入れた。
箱が低く鳴る。
札が自動で浮かび上がった。
回収完了。
続いて十八は記録筒から紙を抜き、別の箱へ入れた。
三百二十はその文字をもう一度見た。
本人回収確認。
「十八」
「なんだ」
「磁馬を見かけたら周辺を捜索しろ、の意味が少しわかりました」
「少しか」
「少しだけです」
「最初はそれでいい」
十八は歩き出した。
「次の任務までに、報告書を書け」
「はい」
「返事は一度でいい」
三百二十は口を閉じた。
それから、小さくうなずいた。
報告室には机が並んでいた。
三百二十は一番端に座った。
筆記具を手に取る。
手がまだ少し震えていた。
けれど、最初に来た時とは違う震えだった。
報告書の一行目に、三百二十は書いた。
新人番号三百二十。
初任務。
江戸、橋下。
未来端末一件、回収完了。
そこで筆が止まった。
少し考える。
それから、次の行に書いた。
磁馬を確認。
周辺捜索。
筆一本。
本人回収確認。
三百二十はその文字を見つめた。
たった数行なのに、今日の匂いや音が戻ってくる。
川の流れ。
子どもの笑い声。
飴の甘い匂い。
磁馬の「あった」という声。
十八が後ろを通った。
報告書をのぞく。
何も言わない。
ただ、記録筒で机を軽く叩いた。
こん、と音がした。
三百二十は顔を上げた。
十八はもう歩き出していた。
時代整理局のどこかで、また扉が開く音がした。
誰かが過去へ行く。
誰かが未来へ行く。
誰かが落ちた物を拾いに行く。
三百二十は筆を握り直した。
そして報告書の最後に、もう一行だけ書き足した。
内規、確認。
意味、現場にて一部理解。
書き終えると、胸の奥が少し軽くなった。
その日、三百二十は新人のままだった。
けれど、ただの新人ではなくなっていた。
時代の裏側で、誰にも知られず物を拾う者。
番号で呼ばれ、番号で記録される者。
ジクウ回収屋の一人。
そして三百二十は、たぶん一生忘れない。
初任務で回収した未来端末の重さよりも。
江戸の橋の下で見た子どもたちの笑顔よりも。
一番強く残ったのは、先輩の最初の教えだった。
磁馬を見かけたら周辺を捜索しろ。
その言葉は、もう謎ではなかった。
まだ全部はわからない。
でも、少なくとも今日、三百二十は見た。
時代を守る仕事の中には、
落とし物を見つけた誰かの小さな笑顔を、
遠くから見届ける仕事もあるのだ。
コメント
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読み終えました…すごく好きな世界観でした📖🤍 「時代整理局」っていう設定、重厚で哀しさもあって、一気に引き込まれました。十八と三百二十の距離感が絶妙で、特に「磁馬を見かけたら周辺を捜索しろ」って内規に込められた温かさにじんときました。時代を守るって、冷たい作業じゃなくて、誰かの小さな笑顔を見届けることなんだなって…。 初任務が終わった三百二十の、少しだけ進んだ感じ、すごく共感しました。続きが気になります🌙