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#恋愛
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第6話 音を聞く人
その夜、発信室の前はいつもより静かだった。
赤い雨のあとだから、というだけではない。
昨日のノイズが、板へ残ったからだ。
記録されると、ただの違和感が少しだけ重くなる。誰かの耳の気のせいでは済まなくなる。発電輪の横で腕を回すカザンも、壁へもたれて靴先を見ているトウヤも、今日はどこか先に耳を出している。
ナミオはラジカセを抱えたまま、発信室の戸口へ立った。
傷だらけの箱は、胸の前でいつもより軽く感じた。
軽いのではなく、腕の方が先に力を入れているだけだと自分でわかる。
ミツが板を机へ置く。
喉の近くの小さな泥化跡が、呼吸で浅く動く。
「今日は自治区、最後」
「なんで」
トウヤが聞く。
「位置がまだ定まってないって」
ミツが短く答える。
「移動しながら受けるらしい」
「面倒だな」
カザンが言う。
「向こうもだろ」
ハジメが壁際で金具を見ながら返した。
「止まれる場所がないなら、止まらないやり方でやるしかない」
ナミオはその会話を聞きながら、ラジカセの角を指でなぞる。
自治区。
前の夜、半分歌と言った拠点。
ざらつく夜ほど、耳を貸せ、と返した拠点。
顔は知らない。
でも、音の癖だけは少しずつ残っている。
軽く笑っているような間。
答えをまっすぐ置かず、一拍ずらして置く打ち方。
歩いているような揺れ。
そこにいる通信者は、たぶん音の周りの空気ごと拾っている。
ナミオは、なぜだかそれを昨日から何度も考えていた。
発電輪が回り始める。
針が起きる。
最初の確認音。
今夜の送受信は、昨日より荒れていない。赤い雨のざらつきは引いている。けれど完全に元へ戻ったわけでもない。端っこにだけ、まだ薄い粒が残っている感じがする。
アメリカ。
大中国。
ロピ。
中東。
順番に返るたび、ミツの指が板の上を滑っていく。
水位。
発電。
外壁。
観測。
どれも短い。
どれも少しだけ昨夜の余韻を引いている。
中東からの返しに、短い私語が混じる。
昨夜の音、今夜は薄い。
ハジメがその打音でほんの少しだけ目を細めた。
ミツが返す。
こちらも。
それだけで終わらせる気かと思ったが、ミツは一拍置いたあと、もう一つ足した。
別件あり。
ナミオは思わず顔を上げる。
別件。
ミツは横目で一度だけナミオを見る。
その目は、勝手なことをするな、と言う時のものに近かった。
けれど、完全に止める目ではなかった。
中東から、了解。
それで通信は一度切れる。
次の確認。
間。
それから、最後に自治区へ呼びかける。
応答が来るまで、少し長かった。
発信室の空気が、待つ形になる。
輪のうなりだけが一定に続く。
トウヤの腕が少しずつ重くなり、カザンの肩が上下する。
ようやく返ってきた音は、やっぱり少し歩いていた。
きっちり止まった打ち方ではない。
けれど、崩れてもいない。
砂利道を靴底でならしながら進むみたいな、細かな揺れ。
現在地、伏せる。
中継、可能。
耳、無事。
トウヤが小さく笑う。
「耳、無事って何だよ」
「自治区っぽい」
カザンが息を吐く。
ミツは板へ刻みながら、すぐ次を送る。
別件あり。
昨夜の件、音に関すること。
自治区からの返りは早かった。
聞く。
その一語だけで、ナミオの指がラジカセへ強く触れる。
ミツがその動きに気づく。
ほんのわずか、眉が寄る。
それでも打つのをやめない。
内部で発生した規則音あり。
歌に近いと認識された。
意味、未定。
発信室が静まる。
もう一歩先へ行くのか、と全員が思った空気だった。
カザンの腕の筋が浮く。
トウヤが完全に眠気を捨てる。
ハジメは針ではなく、今はミツの指の速さを見ていた。
自治区は少し間を置いた。
その間が、ただの遅れではなく、考えている間だとわかる。
そういう間だった。
やがて返る。
意味、探すな。
ナミオの顔が曇る。
その横で、ミツもほんの少しだけ目を細めた。
けれど打音はそこで終わらない。
次が来る。
音の形、送れ。
発信室の空気が変わった。
探すな、と来たあとで、形を送れ。
矛盾しているようで、していない。
意味ではなく、形で受け取ると言っている。
ナミオの胸の奥で、何かが急に熱を持つ。
ラジカセの角へ触れていた指先まで、じわりと上がる。
「聞いてる」
ナミオが小さく言う。
「静かに」
ミツはそう返しながらも、声にいつもの固さがなかった。
中東でもロピでも、大中国でもない。
自治区だけが、意味ではなく形を送れと言った。
ミツが板へ指を置いたまま、呼吸を整える。
「どうする」
トウヤが輪を回しながら聞く。
「送るの?」
カザンの声も低い。
「形って何だよ」
ハジメが答える。
「意味にしないってことだ」
ナミオは一歩だけ前へ出た。
「送れる」
ミツがそちらを見る。
「何を」
「俺のやつ」
「だめ」
「でも」
「送受信台で混ぜない」
「混ぜない」
「じゃあ何」
ナミオはラジカセを少し持ち上げた。
「打つ」
ミツが黙る。
ナミオは自分の胸の中にある並びを、指先で確かめるように机の縁へ触れた。
長い。
揺れ。
短い、短い。
長い。
あの形。
意味のない信号。
半分歌。
誰のものでもない音の手前。
それを、意味としてではなく、打つ。
ハジメが低く言う。
「音の長短を、そのまま置くならできる」
カザンが輪を回したまま眉を寄せる。
「それ、通信じゃなくなるだろ」
「最初から通信じゃない」
ナミオが言った。
発信室がしんとする。
誰も笑わなかった。
ミツが喉元へ指を一度だけ当て、それから板を見る。
「責任持てない」
「持つ」
「あなたがじゃない」
短い言葉のあと、ミツは長く息を吐いた。
「……一回だけ」
ナミオの目が大きく開く。
「ほんとに」
「一回だけ。意味のある返答が来なかったら終わり」
「うん」
「混線扱いでも終わり」
「うん」
「私が止めたら止まる」
「うん」
「返事が軽い」
「今、重くすると逃げそうだから」
トウヤがそこで吹き出しかけ、カザンに肩を叩かれて咳払いへ変えた。
ミツは板の端へ短く記号を刻む。
通常通信外。
試行一回。
自治区限定。
それから、打つ。
通常報告の外で試行する。
意味なし。
形のみ。
自治区からすぐ返る。
聞く。
その一語だけが、やけにまっすぐだった。
ナミオは机の横へ回った。
細い指先を、送受信台の補助板へ置く。
直接ではない。
昨日までにハジメと確かめた、端を借りるだけの位置。
そこなら壊さずに、乾いた打音へ少し違う長さを混ぜられる。
ミツが板を押さえたまま、ナミオを見る。
「ゆっくり」
「うん」
「震えるなよ」
「ちょっとは震える」
「ちょっとで済ませて」
ナミオは頷く。
発信室の全員が、輪のうなりの上へ耳を置いている。
ナミオは息を吸った。
長い。
指先を置く。
乾いた打音とは違う、少しだけ低い持続。
揺れ。
ほんの短く、つまみをかすらせるような癖を混ぜる。
短い、短い。
長い。
そこで離す。
ほんの数息。
それだけ。
けれど、発信室の空気ははっきり変わった。
通信の部屋に、通信ではないものが通った。
報告でも命令でもない形だけが、短く置かれた。
トウヤが輪を回す足を少しだけもつらせる。
カザンがすぐ横で支える。
ハジメの目は針ではなく、ナミオの指先にあった。
ミツはすぐに打たない。
自治区からの返りを待つ。
長い、長い数秒。
発信室の誰もが、その数秒だけ呼吸をやめていた。
それから返る。
最初の一打は、いつもの自治区の癖とは少し違った。
笑うみたいな間がなかった。
息を吸う前。
ナミオの背筋が震えた。
ユラが言った言葉だ。
以前、倉庫で音を聞いた時に。
息を吸う前みたいだと。
遠い自治区の通信者が、同じことを打ってきた。
ミツが板を押さえる手に、少しだけ力を入れる。
喉元の小さな泥化跡が、呼吸に合わせて引きつる。
自治区から続く。
歌ではない。
呼ぶ前。
まだ誰のものでもない。
発信室の灯りが、急に少し近く見えた。
ナミオは指先を板から離したまま、動けなかった。
意味ではない音が、向こうへ届いた。
しかも、意味へ雑に押し込めず、形のままで返ってきた。
歌ではない。
呼ぶ前。
まだ誰のものでもない。
老爺が言ったことと、ユラが言ったことと、ナミオが何度も感じたことが、遠い自治区の打音でひとつの並びになった。
「……通じた」
トウヤが小さく言う。
誰に向けたのでもない呟きだった。
カザンも何も言わない。
ただ、輪を回す腕の筋だけがさっきより強く浮いている。
ハジメが低く息を吐く。
「理解したな」
ミツは返答を打つ前に、一度だけナミオを見た。
その目は、止める時のものでも、怒る時のものでもなかった。
見逃せないものを見た時の目だった。
ミツが打つ。
受信確認。
こちらの認識に近い。
自治区から返る。
近いなら十分。
そのあと、さらに一つ。
次は揺れも送れ。
トウヤがそこで笑いそうになり、でも笑えなかった。
面白いのに、軽くできない。
そういう空気だった。
ナミオが呟く。
「揺れもって」
「今のだけじゃ足りないってことだろ」
ハジメが言う。
「形をもっと細かく聞いている」
ミツは板の端へ新しく書きつけた。
意味なし音、自治区側理解確認。
語ではなく状態として返答あり。
ナミオはその手元を見て、胸の中の熱が少しだけ痛みに変わるのを感じた。
嬉しい。
怖い。
広がる。
その全部が一度に来ると、たぶん痛みに似る。
通信はそこで通常の形へ戻った。
水位。
中継。
外壁。
観測。
私語は減る。
けれど、誰の耳もさっきの数息から完全には戻っていないのがわかった。
最後に、自治区だけが短く残した。
意味はあとで付く。
先に鳴るものもある。
ミツはその一文も板へ残した。
通信が終わる。
針が伏せる。
輪が止まる。
発信室に残るのは、人の呼吸と、さっき通った形だけだった。
最初に動いたのはカザンだった。
輪から手を離し、肩を大きく回す。
「今のは、ちょっと嫌だな」
ナミオが振り向く。
「嫌?」
「嫌っていうか」
カザンは言葉を探し、鼻筋の横の浅い傷だけ先に動いた。
「ちゃんと届いたんだなって感じがして」
「それの何が嫌なの」
「軽くなくなる」
トウヤが頷く。
「わかる」
ユラは今日は発信室の戸口で途中から見ていた。
長い袖の中へ手を入れたまま、目だけが起きている。
「私が言ったやつと同じだった」
「息を吸う前?」
ナミオが聞く。
ユラは頷いた。
「うん。でも向こうはもっと、ちゃんとその先を見てた感じ」
ハジメが補う。
「意味にしないまま受けた」
ミツは板を閉じながら言う。
「それが一番厄介」
「なんで」
ナミオがすぐ聞く。
「意味がわからないものなら、放っておける」
ミツは細い指で板の端をなぞる。
「でも、理解されたら、放っておけない」
その言葉で、ナミオは少しだけ黙った。
たしかにそうだ。
異常音。
意味のない信号。
半分歌。
そのあたりに置いていたものが、今夜、少し別の場所へ動いた。
通じた。
わかった。
近いと言われた。
そこまで行くと、もうただの変なものでは済まない。
食堂へ移ると、いつもより先に話が始まった。
トウヤが皿を受け取る前から言う。
「向こう、理解したって」
「その言い方ずるい」
ユラが笑う。
「理解っていうか、感じたんだよ」
「同じじゃないの」
「違う」
ナミオが椅子へ座りながら言った。
「意味じゃなくて、形で返した」
カザンが鍋から皿へよそい、ナミオの分だけ少し多く入れる。
「今日は前金じゃないな」
「何」
「成功報酬」
「安い?」
「汁多め」
「またそこ」
食堂の奥で、誰かが半分歌の時より静かに笑う。
今夜は歌の話でも、赤い雨の話でもない。
音を聞く人がいた、という話だ。
見たこともない自治区の少女。
布と鉄の寄せ集めみたいな服を着て、歩くたび小さな留め具が鳴る。
目は落ち着かないのに、音へだけぴたりと止まる。
ナミオは勝手にそんな顔を思い浮かべていた。
「女なの」
ユラが聞く。
「知らない」
ナミオは正直に言う。
「でも、たぶん」
「なんで」
「なんとなく」
トウヤが笑う。
「また音で顔作ってる」
「だってそう聞こえるんだよ」
「どう聞こえたら女になるんだ」
「わかんないけど」
ナミオは皿の湯気を見た。
「やわらかいとこがあった」
ユラは少し黙ってから、ふっと笑った。
「それ、わかる気する」
ミツが遅れて食堂へ入る。
板を脇に抱えたまま、細い影みたいに椅子へ座る。
「また顔作ってるの」
「作ってる」
「記録には書けない」
「書かなくていい」
ミツは皿を受け取り、少しだけ考える顔をした。
「でも、若い感じはした」
ナミオとユラが同時に顔を上げる。
「思ったの」
「少しだけ」
「なんで」
「返しが早かった」
ミツは短く答える。
「考えてないんじゃなくて、考える前に掴んでる感じ」
ハジメが戸口のそばで頷く。
「年を取ると、一度意味に直そうとする」
「私はもう取ってるみたいな言い方」
「そういう意味じゃない」
「そういうふうに聞こえる」
少しだけ笑いが起きる。
けれど、そのあとに静けさが続いた。
みんな同じことを考えているのがわかる。
意味ではない音が、モールスで通じた。
点と線でしかやりとりできないはずの場所で、点と線の外側のものが、少しだけ渡った。
それはたぶん、小さなことではない。
ナミオは皿の中の豆をつぶしながら、ふと老爺の部屋を思い出した。
まだ誰のものでもない。
呼ぶ前。
息を吸う前。
あの言葉たちが、今夜は食堂の湯気の中へ薄く混ざっている。
「次、どうするの」
ユラが聞く。
「揺れも送れって」
トウヤが先に答える。
「もう次がある前提なんだな」
カザンが言う。
「止めないの?」
ユラがミツを見る。
ミツは喉元へ指を当て、それから皿へ目を落とした。
「止めたい時もある」
「今は」
「……今は、板に残したい」
ナミオはその言い方に、少しだけ胸の奥が軽くなる。
完全に許されたわけじゃない。
でも、見えないところへ追いやられてもいない。
食後、ナミオはラジカセを抱えて老爺の部屋へ向かった。
布の戸をくぐると、熱と油のにおいが迎える。
老爺は起きていた。
膝の上に鳴らないラジカセを置き、指先で古い傷をなぞっている。
「今日は顔が早い」
「通じた」
ナミオは座る前に言った。
老爺の目が少し細くなる。
「どこへ」
「自治区」
「ほう」
「意味じゃなくて、形で返ってきた」
老爺は黙って頷く。
急かさない。
それがありがたかった。
ナミオは入口へ腰を下ろし、今日のやりとりを短く話した。
息を吸う前。
歌ではない。
呼ぶ前。
まだ誰のものでもない。
揺れも送れ。
話しているうちに、自分の言葉なのか、向こうの返事なのか、ユラが最初に言ったことなのか、境目が少し曖昧になっていく。
でも、それが不思議と嫌じゃなかった。
老爺は最後まで聞いてから、膝の上の箱を軽く叩いた。
「音を聞くやつがいたんだな」
「いた」
「よかったな」
それだけだった。
でも、そのたった一言で、胸の中の痛みみたいな熱が少し落ち着く。
「意味じゃなくてよかった」
ナミオが言う。
「意味にされたら、違った気がする」
老爺は頷いた。
「意味はあとから群がる」
「群がる」
「先に来るのは、たいてい別のものだ」
ナミオはその言葉を飲み込むみたいに黙った。
部屋の外では、通路の灯りが一つ消える。
また一つ消える。
拠点が眠る前の静けさが、壁の向こうでやわらかく重なる。
「顔、浮かぶ?」
老爺がふいに聞いた。
「うん」
「どんな」
ナミオはラジカセを見た。
「歩きながら聞いてる感じ」
「うん」
「止まらない場所のやつ」
「うん」
「目だけ、急に止まる」
老爺はそれを聞いて、小さく笑った。
「会ったら確かめろ」
「会わないよ」
「そうか」
「でも、また通る」
「なら半分会ってる」
それは前にも聞いた言葉だった。
顔は見なくても、手の間は見える。
今夜はそこへもう一つ増えた。
意味にしないまま、音の形を受け取る人がいる。
ナミオは部屋を出たあと、見張り小屋の下まで歩いた。
地上への戸は閉じたまま。
赤い砂の気配はまだ戸の向こうに残っている。
でも今夜は、その重さより別のものの方が大きかった。
ラジカセを胸へ抱く。
自治区の少女。
たぶん少女。
きっと若い。
笑っていないのに少し笑って見える口元。
細い指。
留め具の鳴る肩。
全部、勝手な想像だ。
それでも、想像の形が今夜は少しだけ確かだった。
ナミオは目を閉じる。
耳の奥で、あの返事がまた鳴る。
息を吸う前。
歌ではない。
呼ぶ前。
まだ誰のものでもない。
そして最後に、揺れも送れ。
その一文だけが、妙に近かった。
命令でもなく、報告でもない。
もっと先を聞きたがる耳の形をしていた。
意味ではない音が、初めてちゃんと通じた夜。
それは赤い砂の世界のどこにも灯りを増やさなかった。
腹も満たさなかった。
外を安全にもしていない。
なのに、地下の暗さの手触りだけが、少し変わった。
遠くても、わかる人がいる。
そのことが、弱い灯りより先に、ナミオの夜を少しだけ明るくしていた。