翌日。怠い体を無理矢理起こして、男の居ない空っぽのベッドを見て『このまま消えてくれていたら良いのに』と思う。だけど美味しそうな匂いに釣られて居間にふらふらとした足取りのまま行って、その甘い期待は速攻で打ち砕かれてしまった。
「——あ。おはよう、ひばり。よく眠れたか?」
真剣な顔で、私には見覚えの無いノートパソコンを見ていた顔を上げ、男が微笑む。『…… この人って、こんな顔だったんだ』と思いながら、「…… まぁ、それなりに」と擦れ声で返した。昨夜叫び過ぎてこの有様っぽい。
「…… (それにしても、参ったなぁ)」
自分の部屋なのに行き場がない。ここで急に寝室に引き返すのも、でもこの男と同じ部屋で大人しくしているのも変な話だし。そんな理由で困っていると、男は私の側まで来てそっと背中を押してきた。
「腹減っただろう?食材があまりなかったから、人に頼んで料理を届けさせたんだ。そろそろ起こそうとも思っていたし、もう温めてあるからすぐに食べると良いよ」
(それっぽい空の容器は無いけど、宅配サービスでも利用したんだろうか?)
料理がどれもすごく美味しそうだ。使っているお皿はウチに元々あった物だけど、盛り付けが丁寧で綺麗だってだけで安皿まで高級品みたいに見えてくるから不思議である。
「好き嫌いは無いだろう?本当は俺…… 僕が、作っておいてやりたかったんだけど、冷蔵庫を見たら目玉焼きとウィンナーくらいしか出せそうになかったから今朝は早々に諦めたんだ。あ、でも、今夜はちゃんとご馳走作るから、…… 逃げるなよ」と言い、男が私の肩を少し強めに両手で掴む。
「…… は、はい」
下手くそなのに、まだ猫を被るつもりでいる男に対し、私はそんな言葉しか返せなかった。
お気に入りのソファーに座り、テーブルの向こう側の床に直接座る男をチラリと見る。思った通り随分とガタイの良い男性だ。こちとらソファーに座っているっていうのに向こうの方がまだ高い気がするくらいに。グリズリーとかヒグマとか、そんな印象の分厚さではあるが太ってはいない。全て筋肉だ。純粋な東洋系の血筋ではなく西洋の血も幾分混じっているのかもしれない。目の下にはうっすらとクマがあって顔立ちは少し神経質そうな印象である。今はメガネをしているがきっとパソコン作業をする時だけのものだと思う。髪型や服装的には特に洒落た印象はないのだが、困った事に相当筋肉質なおかげで見目は良く感じられる。守ってくれそうな雰囲気のある男性であった。
「「いただきます」」
昨晩の一件ですっかり身も心も懐柔されてしまっているせいか、私は呑気に男と朝ご飯を食べ始めた。時計を見上げるともうこれを昼ご飯と言った方が良さそうな時間だったから、今日が土曜日で本当に良かった。
(それにしても…… )
目の前に並ぶ料理はどれもホテルの朝食といった雰囲気の物ばかりである。一人暮らしが長いと、せいぜい朝は卵を焼いて、納豆と昨夜作ったお味噌汁で朝ご飯を済ませるといったパターンばかりだからこんな物を家で食べられるなんてちょっと不思議に感じられる。食事の所作も綺麗だし、こんな料理を即座に用意出来るくらいなんだから『金はある』っぽい発言をしていたのはどうやら嘘ではない様だ。
「これが済んだら、沸かしてあるから風呂に入るといい。ホットタイルで体を拭きはしたけどまだちょっと気持ち悪いだろう?僕はその間に食器を洗っておくから」
至れり尽くせりで怖くなる。家事をするなんて面倒事を嬉しそうな顔で言う辺り、この男は本当に私の事が好きみたいだと実感した。
「んで、風呂からあがったら早速役所に行こうな。明日は引っ越ししないとだから、今夜はちょっと控えめにしようか」
「…… え?は?」
「もう孕んでるかもだし、僕らは夫婦になるんだ、この部屋じゃ手狭だろう?コレでスムーズに上手くいく保証も無かったから流石に新居はまだ用意していなかったけど、僕の部屋は広めだから少しの間は困らないと思うぞ。んでも、子供が生まれる前か、遅くとも幼稚園に行き始める前には庭付きの広い新居を見付けておくから心配しないで」
どんどん勝手に私の未来が決まっていく。だけど魅惑的に思えてしまうのが恐ろしい。
「あ、就職先もまた選び直ししないとなぁ。流石に子供達も父親が無職は気になるだろうし。——ん?でも、専業主夫になればいいだけの話か?」
(子供『達』って、もう既に何人も産ませる気でいるの⁉︎)
あんな思いをこの先何度もしないといけないのかと考えてゾッとしたはずなのに、不覚にも腹の奥はキュンッと疼いた。そんな私には気が付かぬまま、男が話を続けている。考え事をする時はずっと筋トレをしているから気が付けばこんな体型になったとか、自分の|乾風羽(いぬいかざは)《名前》やら年齢やら、収入には心配いらない理由なんかも。投資をやっていたり、個人的に何個か特許を取っているとかで安定した収入があるらしいんだが、そんな人間が本当に世の中に居るのかとちょっと驚いてしまった。
「…… 天才肌って、やつなんですね」
「まぁ、傍から見たらそんな感じなのかな?今も結構色々とあちこちからスカウトが来るしな。一々対応が面倒で兄の子を代理人として雇ったくらいには、まだ僕にも需要があるみたいだね」
当人は御自分の凄さを理解していない感じだ。まだ若いのに現状に慣れてしまっているのだろう。
「兄弟が多いんですか?」
「十人兄弟で、僕は今の所末っ子だね。兄姉達も子沢山だから、今さっき話した甥っ子なんかは僕とそれ程年齢が変わらない感じかな」
(絶対にこの男の性欲旺盛っぷりは父親譲りだ)
自分が末っ子であるという説明に『今の所』とつける辺り、男もそうであると思っているに違いない。この先私も、彼の母親と同じ目に遭うのかと思うと少し怖くなった。
(あぁ…… この男から逃げるという思考に行き着けないなんて、もう終わってる)
「色々周りも手伝ってくれるし、僕も甥や姪のおかげでちゃんと家事も育児も経験あるから、ひばりはありのままでいてくれていいからな」
満面の笑みで言われて自然と口元が緩む。もしかして私は玉の輿に乗ったのでは?最悪だとしか表現のしようがない出逢い方だったけど、この男に堕とされて良かったのでは?と思えてくる。——だからか、この瞬間、私はこの男に完落ちしてしまった。…… 我ながらチョロいとは思うが、自分にとって完璧な条件を揃えた人に愛されていると実感出来ても、それでもその相手から逃げられる人なんかほぼいないんじゃないだろうか。持論でしかないけれども。
【翌日談・完結】
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