すぐにご飯だしと思った私はダイニングの椅子に座った。背が壊滅的に低い私は、椅子に座ると大人のくせに足が下につかない。足をブラブラと揺らして司さんが来るのを待つ。
「ますます子供に見えるから、やるな」
見事に怒られてしまった。なので今度は、言いつけ通りじっとしてみる。
「いい子だな」
そう言いながら司さんが頭を撫でてくれる。撫でてもらえるのは嬉しいのだが、こんなやり取りの後だと、それこそ子供扱いされてるみたいでちょっと悔しい。…… まぁ、結局は喜んでしまうのだけど。
椅子に座る私の前に、司さんが膝をついて座る。自分の太股に、私の足手に取りそこへ乗せた。
(司さんが私の足に触ってる…… )
考えるだけでもう、なんだかすごくドキドキしてきた。
「慌てて走るな。帰って来ただけで飛びつく必要もない」
軟膏の蓋を開けながら司さんが言う。
「…… 久しぶりだったから」
「一段落したから、明日からは一応家には帰れる。…… 多分」
「本当⁈」
「期待はするなよ」
「——うん」
(嬉しい…… 帰って来てくれるかもってだけで、待つ甲斐があるもん)
軟膏をちょんと私の脚にのせ、指で伸ばす。『ぶつけたばかりでさほど変色はしていないのだが薬まで塗る意味はあるのだろうか?』とも思うが彼の好きにさせた。司さんは心配性なのだろう、きっと。
ゆっくりと塗り込む手と、足裏に感じる司さんの体温が心地いい。でも、くすぐったいような……気持ちいいような…… 司さんの指先の体温を必要以上に感じてしまい「…… んっ」と変な声が出てしまった。
私の声に驚いたのか、バッと手を離し、司さんが慌てるようにして私の足を太股から降ろした。
「も、もう終わったから。あまりぶつけるなよ?」
明らかに声がうわずっている。薬を片付け始める司さんの姿を私は不思議に思い、彼を見詰めた。
(何でこんなに動揺しているんだろう?そのまま流れでどうなっても私はいいのに…… 。私達は“夫婦”なのになぁ…… )
「ごちそうさまでした」
司さんが手を合わせ、食器を下げようとしてくれる。
「いいよ?私が後でやるから」
「いや、こんなにあったら大変だから」
大変なのは絶対に司さんの胃袋の方だ。テーブルに上がっていた分を完食してくれたんだもん。すごく嬉しいが、申し訳なかったかなとも思う。こういう何気無いところで、『自分はちゃんと愛されてるんだな』って、また実感出来た。
食器を私が洗い、司さんがそれらを拭いて棚へとしまってくれる。おかげですごく早く片付けが終わった。
「お風呂先にいいよ。私はお茶の用意とかしておくから。ケーキは今すぐじゃない方がいいでしょ?」
「…… ああ。今すぐは、お茶もはいらないかな」
トントンと司さんが胸を叩いている。どうやら食べ過ぎで、胸焼けしてしまっているようだ。『うう、ごめんなさい…… 』と私は心の中で謝った。きっと口には出さない方が良いだろうと思ったから。
お風呂から司さんがあがるのを待つ間にヤカンでお湯を沸かし、紅茶の準備をする。ティーパックなんかじゃなく、ちゃんと葉っぱから煎れてあげよう。紅茶の缶を並べてある棚から、司さんが一番気に入っていたブルーベリーと書いてある缶を取り出す。食器を並べ、カップも出し、自分のお風呂の準備もしようと下着やパジャマを取りに行った。
脱衣場に入り、自分の下着などを棚の上に置こうとした時、司さんの換えの下着がそこに無い事に気が付いた。
(いつもは自分で出すのに、疲れてて忘れてたのかな?)
そう思い、司さんの部屋に取りに行く。クローゼットを開け、着替え一式を持ち再び脱衣室へ。
それらをそっと目立つ場所に置き、バスタオルも出しておこうと棚に手を伸ばした瞬間、風呂場のドアがガラッと開いて、湯上りほっかほかの司さんとバッチリ目が合ってしまった。
「い、いたのか⁉︎」
そう言うが早いか、バタンッ!と勢いよく風呂場のドアが閉まる。早かった。人間はこんなにも俊敏に動けるのかと感心した。私なんか、硬直したまま、返事もできなかったというのに。
そして、その……
——なんていうか、その…… みちゃった。
初めて旦那様の裸を見てしまった…… 。そのせいで、カァーと顔が一気に赤くなる。きっと今なら林檎にだって負けていない。
普通だったら既にもう当たり前に何度も見ていて、風呂場に引き返したりもせずに着替えを始めるんだろうけど、きっと私がここに居ると恥ずかしいんだろう。
だって、私も今すごく恥ずかしいし。
自分は裸を見られてもいないのに、何だかすごく照れくさい…… 。いたたまれないレベルだ。
「ご、ごめん。下着用意し忘れているみたいだったから…… 」
ドアの向こうに見える影にまでドキドキしてしまう。職業柄なのかなぁ、あんなにしっかり鍛えてたんだ。学生時代は陸上部だったって言っていたからもうちょっと細いのかと思ってたけど、違ったんだなぁ。
「わかった、ありがとう。でも、そこから出てもらえるか?」
司さんの声がうわずっていて、動揺を全然隠しきれていない。
「あ、ごめん」
彼の声色にこちらまで動揺しだし、そそくさと脱衣室から出る。なんだか物凄く気まずい。
微かに「くそっ…… 」と、彼のぼやく声が聞こえた。
「 ……… 」
「 ……… 」
司さんが買ってきてくれたケーキと、私のコレクションの美味しい紅茶。こんな素敵なコンボを前に、二人とも黙り込んだままだ。出来れば司さんから何か言ってもらえるとありがたいんだけど、その気配もない。
(何でこれしきの事でこうなっちゃうかなぁ)
全てが全て、夜の営みが無いせいな気がする。でも、またそんな考えに至ってしまう自分がちょっと嫌だった。
「えっと…… いただきます」
「はい」
短い返事しか返ってこない。仕方がないので、黙々と食べる。私の大好きなお店のレアチーズケーキを買って来てくれたというのに味がよくわからない。気が散ってしょうがない。
さっきの裸を思い出し、にまぁと笑いそうになったりしてしまうのを必死に堪えたり、何とかこの雰囲気をどうにかできないかと落ち込んだり、彼の態度に不安を思ったり。そんな気持ちが顔には出ないよう必死に誤魔化しながら、とにかく食べる。
その間、司さんは視線も合わせてくれない。
「…… 怒ってるの?」
我慢しきれず、私から口を開いた。
「怒る事は何もしてないだろう?」
司さんの声が硬い。
「でも、ずっと黙ってるから…… 」
「口数が少ないのは元からだ」
まぁ確かにそうなんだけど、どう考えてもいつもの雰囲気じゃない。それぐらい私にだってわかる。でもきっとこれ以上追求しても司さんが理由を話してはくれない事も、残念ながらわかってしまう。
(——そうだ、これはもう何か話題を変えた方がいいな。今のうちに、アルバイトの事話してみよう)
「ねぇ」
「ん?」
「今日大学時代の後輩から電話があってね、当時私のアルバイト先だった店を手伝ってもらえないかって言われたんだけど、やってもいい?短期みたいなんだけど」
「どこで?」
「駅前の居酒屋なの。『火の家』ってお店なんだけどね、経験があるから私に頼みたいって。人がすごく足りなくて困ってるらしいの」
「ああ、あの店なら知ってる」
「いい?夜になるけど、ご飯は用意してから行くから」
「んー…… 」
顎をおさえ、司さんの眉間にシワがよっている。これはダメって事かな。
「あんまり遅くなるなよ、心配だから」
(うそ!やった!)
意外な答えが返ってきた。これは無理だろなーと思ったから、正直嬉しい。久しぶりに仕事に行けるってだけで楽しみになってきた。私でも役に立つんだって実感出来るからだ。
「ただし条件がある」
いつも真面目な顔の司さんなのだが、さらに真剣さが増した表情になった。
「ん?何?」
「指輪は外すな。誰に誘われても飲みには行くな。知り合いでもだ」
その言葉に、にまーっと顔が崩れる。
(これ絶対心配してくれている!)
『お前は俺のなんだ』った言われているみたいで嬉しい!テーブルがなかったら絶対に抱きついていた。
「大丈夫だよ、司さんしか見えてないから」
自分に出来る、最大限の笑顔で私はそう言ったのだった。
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