インターフォンを押した楓は心臓がドキドキしていた。
「はい」
スピーカーからは間違いなく兄・良の声が聞こえてきた。
楓がカメラから少し逸れていたせいか、良は楓だと気付いていない。
「どちら様ですか?」
「お兄ちゃん、一体どういう事?」
そこで一瞬沈黙が訪れる。
「ねぇ、お兄ちゃん、話があって来たの。入れてちょうだい!」
楓が少し身体の位置を変えたので漸く妹の姿がカメラに映ったので良は驚く。
「か、楓……どうしてここに?」
「それは後で説明するから、とりあえず中に入れてよ」
その時、良の背後から軽やかな女性の声が響いた。
「良さーん、お風呂次どうぞーっ」
「あ、うん、ありがとう」
良は女性に向かって愛想良く返事をした。
「今の人誰?」
「か、楓っ、と、とにかく今日は一度帰ってくれないか? 今度ちゃんと説明するから」
楓がいると都合が悪いのだろう。良は慌てて妹を追い返そうとする。
「まだ話をしていないわ。それに今の人お兄ちゃんの恋人なの? だったら紹介してよ」
「い、いやっ、とにかく今は駄目だっ」
良は妹を家に入れる気はないようなので、仕方なく楓は今日話したかった事をインターフォン越しに聞いた。
「私が聞きたいのはお金の事とか医学部の事とかだよ。お兄ちゃん、何か私に説明する事があるんじゃないの?」
すると良は突然声を荒げた。
「お前は俺がやっとの思いで手に入れた幸せまでもぶち壊したいのか? 何度俺の人生の邪魔をすれば気が済むんだ?」
そのあまりにも身勝手な言い分に楓は深く傷付く。
(何で? 何でいっつも私のせいなの? 全部私のせいなの?)
そこに幼かった頃の兄の姿はなかった。
家族四人で食卓を囲みながら楽しく団らんをしていた頃の兄の姿はそこにはない。
兄弟肩を寄せながらテレビの前に並んで座り人気番組を一緒に見ていた兄の姿も、もうそこにはなかった。
押し黙っている楓に向かって良は更にイライラした様子で言った。
「とにかく今日は帰ってくれ。俺の方から会いに行くから。また連絡する」
そこでインターフォンはブチッと途切れた。
楓は呆然としたまましばらくその場に立ち尽くしていた。
4~5分経った頃、楓は漸くノロノロと歩き始める。
これまでにも孤独は何度も感じていたが、今ほど深い孤独感に包まれた事はなかった。
自分にはもう頼れる人が一人もいないのだと思うと、楓は言いようのない絶望感に襲われる。
楓が青ざめた顔でガックリと肩を落としながら歩いていると、突然聞き覚えのある声が響いた。
「楓!」
楓が顔を上げると、そこには先日楓のアパートへ来た社長の東条一樹が立っていた。
一樹の後ろには黒の高級ミニバンがハザードランプを出して停まっている。
運転席には茶髪の若い男が乗っていた。
「東条さん…なぜここに?」
「心配だから様子を見に来た」
「えっ?」
「メッセージで今日行くって言ってたろう? だから心配で見に来たら案の定追い返されたか」
一樹はそう言ってフフッと笑った。
(わざわざ? 心配で見に来たって……)
楓は一樹の言葉が気になったが、すぐに返事をした。
「何で追い返されたってわかったんですか?」
「そのしょんぼり顔を見たらすぐにわかるさ。車に乗って。家まで送るから」
「だ、大丈夫です。電車で帰れます」
「もう時間が遅いよ。それにどうせ同じ方向だから…」
一樹が後部座席のドアを開けて車に乗るようジェスチャーをしたので、楓は仕方なく乗った。
そして運転からこちらを覗き込んでいる茶髪の男にペコリとお辞儀をする。
遠くから見た時は楓と同じくらいの年齢だと思っていた男は、近くで見ると兄の良と同年代に見えた。
「どうも! 西靖人です。『ヤス』って呼んで下さい」
運転席の男がニッコリと微笑んだので楓も自己紹介をした。
「長谷部楓です。すみません、送っていただいて……」
「いやいや気にしないで下さい」
すっかり落ち込んでいた楓は、ヤスの明るい声に元気付けられる。
(見ず知らずの他人の方が実の兄よりも優しいなんて……)
そう思うと更なる悲しみが楓を襲った。
しかしその時一樹が隣に乗り込んで来たので、楓の溢れかけた涙はすぐに引っ込む。
それから三人の乗った車は麻布の町を走り始めた。
しばらく沈黙が続いた後、一樹はビジネスバッグから大きな茶封筒を取り出すと楓に渡した。
「何ですか?」
「お兄さんに関する追加の報告書だ。帰ってから見るといい」
「え? 兄の?」
「ああ。先に見せてもらったけど医学部へ行くと言うのはやっぱり嘘かもしれないな」
「…………」
今回は何も言い返す事が出来ない。
なぜなら先ほどの良の態度を見て楓も確信した。一樹の予想が当たっていた事を。
「兄はあのマンションに女性と住んでいて中には入れてくれませんでした。その女性は恋人なんでしょうか? どうも私をその人に会わせたくなかったみたいです。だから今日は帰ってくれって……後日会いに行くからと言ってました」
「そうか。ちなみにその報告書によると一緒に住んでいるのはお兄さんの会社の重役の娘だ。二人は近々結婚するみたいだな。相手が上流階級のお嬢さんだから君を会わせたくなかったのかもしれない。きっと自分の生い立ちを隠したかったんだろう」
「でも…そんなの調べればすぐわかるのに…」
「だよな。ところでお兄さんは子供の頃ってよく嘘をついてた?」
突然そんな事を聞かれたので楓は昔を振り返る。
確かに良は昔からよく嘘をついていた。なぜすぐにばれる嘘をつくのかと、園長の景子がよく嘆いていたのを覚えている。
「兄は昔からよく嘘はついていました」
「という事は、嘘に嘘を重ねるうちに色々と収拾がつかなくなったんだろうな…」
楓も同じように思ったので頷く。
「だから医学部で金が必要っていうのは多分嘘だろう。でも何かに金が必要だった。それで君を売った。ただその金の使い道ってのがなぁ……? 資産家令嬢との交際費や結婚準備で入用だったのか、それとも他に何か理由があるのか? まあまだ調査中だからおいおいわかってくるだろうけど。わかったら教えるよ」
「すみません……なんだか色々と……」
「気にするな。それより引越しの準備は順調?」
「はい、もうほぼ終わっています。ところで引越し先の住所をまだ教えてもらっていないのですが」
「悪いけど住所がわかるのはギリギリになりそうだ。まあわかったら引越し業者に俺から伝えておくよ」
「え? それって私も当日にならないとわからないって事ですか? 出来れば前日にお掃除に行きたいのですが……」
「掃除は必要ないよ。すぐに入れる綺麗な状態だから」
「……わかりました」
そうは言われてもやはり前日に新居の様子を見ておきたかった。しかしこれ以上ごねるのも気が引けたので素直に黙る。
なんといっても無料で住める社宅を提供してくれるのだ。文句など言ったらバチが当たる。
そこでヤスが言った。
「どんな家に住むか当日にならないとわからないなんて、なんかゲームみたいで楽しいですよね」
「ハハッ、確かにそうだな」
二人は笑っているが楓はやはり不安だった。そんな楓に気付いた一樹は楓を安心させるように言った。
「まあ変な場所ではないから安心しろ」
「はい……」
運転席にいるヤスは二人の会話をニコニコしながらバックミラー越しに見つめていた。
コメント
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一樹さん、楓ちゃんを救い出してくれるんですね~😆 良かった~😂
クズ兄良と縁切ろ〜 いらないでしょ妹をAVに売る兄なんてさぁ しかも今そのマンションに住めるのも楓ちゃんのおかげじゃん、なに勘違いしてんだかっ😤😤😤
うーん、楓ちゃんのお部屋は、もしや一樹さんのお屋敷の一室とか?