テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
83
#異能力バトル
於田縫紀
1,773
74
第7話 同調
朝の教室には、だれのものでもないはずの音がある。
椅子を引く音。
筆箱のふたが開く音。
窓の近くで、だれかがカーテンを少しだけ寄せる音。
それなのに、このごろの教室では、音に向きがある。
どこへ向かうか。
どこで止まるか。
どの音には笑いが混ざり、どの音には混ざらないか。
ミチルは扉の前で立ち止まった。
右手の親指が左手のあかぎれを探る。
そこだけが少し痛い。
それだけは、昨日の続きではなく今の痛みだった。
扉を開ける。
数人が見た。
見て、すぐ前を向く。
べつに珍しいことでもないみたいに。
でも、その「べつに」の中へ、すでに形が入っている。
「おはよ」
ヒナが言う。
肩の少し上でそろえた髪が小さく揺れる。
机の上のノートの角を指でそろえながら、顔だけこちらへ向ける。
「……おはよ」
返す。
それだけ。
それだけなのに、自分の声が教室のどこに落ちたのか気になる。
サエは前の席で、口元を手で隠して笑った。
笑った理由は分からない。
分からないまま、ミチルの肩が少しだけ上がる。
ユウタが後ろで言う。
「今日、静かじゃん」
だれに向けたのか分からない言い方。
でも、分からないままこっちへ寄る。
「朝からなんかあると嫌だしね」
だれかがそう返す。
名前のない声。
それが前より増えていた。
ナナカは頬杖をついたまま、窓のほうを見ていた。
肩より少し下まで落ちる髪。
前髪の下の視線だけが、あとからこっちへ向く。
「みんな、気をつけてね」
その言い方は、連絡みたいだった。
先生が言うような、係の子が言うような。
やわらかい声。
でも、教室はちゃんとそれを受け取る。
ミチルは席へ向かった。
机の横を通るとき、椅子の脚が少し出ている。
いつもならそれを直す。
けれど今は、触ると何かになる気がした。
触らずに横をすり抜ける。
そのとき、机の角に太ももが少し当たった。
ほんの少し。
音にもならないくらい。
でも後ろで、だれかが言う。
「あ」
たったそれだけで、数人が見る。
ミチルは立ち止まらずに席へ行く。
行くしかない。
確認すれば、確認したことになる。
「今のやばくない?」
後ろの女子の声だった。
笑っているような、そうでもないような声。
「机、動いたよね」
別の子。
「危な」
ユウタ。
危ない。
その言葉は、もうこの教室でよく育つ。
だれかが置けば、すぐ広がる。
「当たっただけじゃん」
言ったのはサエだった。
かばったのではない。
軽くしただけだ。
当たっただけ。
その「だけ」が、もう空気の中で別の意味を持つ。
当たる人。
ちょっとならやる人。
悪気なくやる人。
ナナカはまだ何も言っていない。
なのに、十分だった。
一時間目の前、前の列でプリントが配られる。
前から後ろへまわる。
紙が擦れる音。
ミチルの前で、ヒナの手が少し止まる。
本当に少し。
でも止まったことは分かる。
「はい」
ヒナが言う。
いつもの声。
けれど、指先だけが紙を少し遠く持つ。
ミチルは受け取る。
触れないようにしたのは、どっちだったか分からない。
そのすぐあと、後ろからユウタが言う。
「雑に渡さないでね」
笑い声が混ざる。
小さい。
でも、教室の数人が一緒に笑う。
ミチルは振り向かない。
振り向けば、それだけで顔の話になる。
「別に雑じゃないし」
小さく言う。
言ったところで、すぐ別の声が重なる。
「そう思ってんの本人だけなんだよね」
だれかが言う。
「わかる」
すぐ、別のだれか。
わかる。
それはもう、意見ではなく空気のほうに近かった。
だれか一人が言い出したことではなく、最初からそこにあったみたいに響く。
授業が始まる。
教師の声が前から流れる。
板書の文字が増える。
ノートを取る手が動く。
ミチルは前を向いていた。
前を向いていても、後ろや横の気配が消えない。
肩の位置。
指の動き。
椅子を引くときの角度。
全部が、自分のものではないみたいに見られている。
途中で消しゴムを落とした。
ころん、と足元に落ちる。
それだけで、空気が少しだけ揺れるのが分かる。
拾う。
ただ拾う。
でも、その動きを見ていた後ろの女子が小さく笑う。
「すぐ拾うんだ」
何のことか、分からない。
分からないまま、ユウタが笑う。
「触るの好きなんじゃない?」
理科のときの言葉が、もう別の口から出る。
教室の中で形が回っている。
ミチルは机の上へ消しゴムを置いた。
何も言わない。
言えば広がる。
でも黙っていても、もうだいぶ広がっている。
二時間目の休み、リオが席を立った。
あごの少し下で切られた髪の毛先が、歩くたび外へ小さく向く。
通路を通る。
そのとき、ミチルの机の脚がほんの少しだけ出ていたのか、リオの足先が軽く触れた。
「うわ」
リオが言う。
強くない。
本当に軽い。
ミチルは反射で机を引こうとした。
その瞬間、サエが声を出す。
「また?」
また。
何度も使われた言葉。
何度も軽くて、何度も重い。
「今のは」
ミチルが言いかける。
「ほら、やっぱり」
ナナカが言う。
頬杖をついたまま、目だけをこちらへ向けて。
「前からそうなんだって」
前から。
それを聞いたユウタが笑う。
後ろの女子も笑う。
今度はだれが最初だったのか、よく分からない。
「リオって前にもあったもんね」
「発表のときもだし」
「ヒナのときも」
「ユウタの足も」
並ぶ。
昨日までのものが、今日の中へ自然に入る。
ひとつひとつは別だったのに、もう全部同じ線の上に置かれている。
リオは机の脚から足を引き、言った。
「だいじょうぶ」
だいじょうぶ。
やわらかい声。
でも、この教室では、そのやわらかさに意味が増える。
「リオがいいって言ってもさ」
サエ。
「周りがよくないんだよね」
後ろの女子。
ミチルは何も言えなかった。
何を言っても、もう遅い顔になりそうだった。
三時間目の移動教室。
廊下へ出る。
列になる。
ふつうの流れ。
だれも指示していないのに、ミチルの前後には少しだけ距離ができる。
ほんの半歩。
それだけ。
でも、その半歩はよく見える。
「そこ入らないで」
小さい声がした。
だれの声か分からない。
見ると、前の子が少しだけ肩を寄せて、列のすき間を閉じていた。
わざとらしいほどではない。
でも、偶然よりははっきりしていた。
ミチルは列の後ろへ回る。
その動きを見て、だれかが笑う。
「やっぱ分かってるじゃん」
「空気読めるんだ」
「最初からそうすればいいのに」
笑いが広がる。
だれが言ったのか、もうはっきりしない。
そのはっきりしなさが、一番きつい。
理科室で席につく。
ペアを作る。
だれも露骨には拒まない。
でも、組み方が少しずつずれる。
ちょうど一人分だけ、ミチルの横に空きが残る。
先生が「じゃあそこ二人で」と言って、最後にタクミがその席へ来た。
鼻筋の通った横顔。
前髪を手の甲で払う癖。
大きな手で椅子を引き、座る。
何も言わない。
それでまだ少しだけ楽になる。
でも、その楽さは、助けではない。
ただ黙って同じ席に座るだけの楽さだ。
実験のあいだ、ミチルはビーカーに水を入れた。
手元に集中する。
水面が揺れる。
「こぼしそう」
斜め前の席から、だれかが言う。
笑いが起きる。
教師は別の机を見ていて気づかない。
ミチルは手を止めた。
止めたことに、また笑いが起きる。
「止まるんだ」
「図星」
「そういうとこ」
もう、ナナカの声だけではない。
クラスのあちこちから、同じ形の言葉が出る。
ナナカは向こう側の席で試験管を持っていた。
でも、口元は少しだけやわらかい。
自分が何もしなくても、もう回るものを見る顔だった。
昼休み、教室には弁当の匂いとパンの袋の音が混ざる。
サエが前の席の子に言う。
「ミチルの横って、なんか疲れるよね」
その一言に、すぐ何人かが反応する。
「わかる」
「気使う」
「何するか分かんないし」
「でも本人わかってないんだよね」
軽い。
軽いまま、どんどん重なる。
ミチルは弁当を開けたまま、何から食べればいいか分からなくなった。
卵焼きの黄色。
小さい唐揚げ。
白いごはん。
見慣れたはずのものが、急に教室の外すぎる。
ヒナが小さく言う。
「そんなに言わなくても」
その声は、ほんとうに小さかった。
でも、すぐ別の声が重なる。
「いや、でもほんとだし」
「ヒナだって前、見られてやだったって言ってたじゃん」
「リオも嫌だったって」
ヒナは黙る。
黙ったことが、そのまま肯定になる。
ミチルはその流れを見ていた。
見ているしかなかった。
だれも大きな声を出さない。
だれも机を叩かない。
なのに、教室全体が少しずつ同じ向きを向く。
砂が風で寄るみたいに。
水が低いほうへ流れるみたいに。
ナナカは、もうほとんど説明しない。
ただ、言葉を一つ落とすだけでいい。
「みんなそう思ってるし」
それだけで、十分だった。
午後、担任が席替えの話をした。
近いうちにやるらしい。
その一言で、教室がざわつく。
「えー」
「やだ」
「また隣になったら最悪」
だれがだれのことを言っているのか、名指しはしない。
でも、言われている側は分かる。
「先生、そこだけ離したほうがいいよね」
だれかが笑いながら言う。
担任は「またちゃんとくじでやるよ」と返す。
やわらかい声。
でも、そのやわらかさは今の教室には届ききらない。
ユウタが後ろで言う。
「くじ運悪かったら終わる」
笑いが起きる。
今度は少しだけ大きい。
ミチルは前を向いていた。
前を向いているのに、背中の形を見られている気がした。
首を引きすぎると、怯えて見える。
肩が上がると、怒って見える。
普通に座る、その普通がもう分からない。
五時間目の終わり、先生が黒板を消しながら「じゃあプリント後ろへ回して」と言った。
教室が一斉に動く。
紙がまわる。
机が鳴る。
ミチルのところへ紙が来ない。
一瞬だけ、流れが止まる。
前の子が、あ、と言う。
わざと忘れたわけではないような顔。
でも、そのあとすぐ後ろの子が笑う。
「飛ばされてる」
「やば」
「まあいっか」
いっか。
その言葉が、もう怖かった。
よくないことを、悪くないまま置いておける言葉だから。
ヒナが紙を持って、少し迷ったあと、ミチルへ回した。
細い指先。
けれどその手つきにも、ほんの少しだけ迷いがあった。
「はい」
「……ありがと」
返すと、後ろでユウタが小さく言う。
「礼儀あるんだ」
笑い。
それにまた別の笑い。
だれも悪意の形をしていない。
それが一番、空気を厚くする。
放課後、掃除の時間。
ほうきを持つ。
机を下げる。
雑巾の水をしぼる。
ふつうの作業。
でも今日は、だれもミチルに何かを直接しなかった。
ぶつからない。
踏まない。
押さない。
その代わり、空気のほうが先に動く。
「そこ通る?」
「え、今?」
「やだ」
そんな小さな声が、近くでも遠くでも起きる。
ミチルが動くたび、だれかが一歩引く。
引いた理由を言わない。
言わないまま、引く。
それを見た別のだれかも、同じように引く。
それはもう、指示でも合図でもない。
ただ自然に起きているみたいに見える。
だから余計に止めにくい。
タクミが机を持ち上げた。
大きな手で端をつかむ。
ミチルと通路の角でぶつかりそうになり、タクミは先に少し引いた。
それだけだった。
でも、それを見ていたサエが笑った。
「タクミまで」
タクミは何も言わない。
前髪を手の甲で払って、また机を運ぶ。
何も言わないことまで、今は意味になる。
「みんなそうなんだよね」
後ろの女子が言う。
「なんか、自然と避けちゃう」
自然と。
ナナカがそこで、初めて少しだけ口を開いた。
「わかる」
たったそれだけ。
その「わかる」は、合図ではなかった。
確認だった。
教室の中の形を、そのまま言葉にしただけ。
ミチルはほうきを持つ手を見た。
指が白くなるほど力が入っていた。
ほうきの柄のざらつきが手のひらに残る。
「なんでみんなそうなるの」
とうとう口から出た。
教室が、少しだけ静かになる。
サエが目を丸くする。
ユウタが笑う。
でも、その笑いもすぐには続かない。
ナナカが頬杖をついていない顔で、まっすぐミチルを見る。
「なんでって」
一拍。
「みんな嫌だからでしょ」
二拍。
「それ以上ある?」
三拍。
それで終わる。
それで足りる。
だれかが「たしかに」と言う。
だれかが「でしょ」と返す。
だれの声か、もう分からない。
ミチルはその瞬間、教室の中で自分だけが外側にいるのをはっきり見た。
ナナカが中心、という感じではなかった。
サエでも、ユウタでもない。
みんながもう、同じほうを向いている。
そして、その向きに自分だけが入っていない。
その差だけが、教室の真ん中にあった。
掃除が終わる。
椅子が元の位置へ戻る。
黒板の下の床が濡れて、少しだけ灯りを返す。
だれかが帰る支度をしながら言う。
「明日も普通にしよ」
普通に。
いちばん怖い言葉だった。
普通に笑う。
普通に避ける。
普通に回さない。
普通に一歩引く。
普通に話さない。
普通だから、だれも悪くない顔でいられる。
ミチルはかばんを持った。
肩にかける。
そのときも、近くにいた子が自然に半歩ずれる。
ずれたことに、その子自身も気づいていないような顔をしている。
ナナカが教卓の横でそれを見ていた。
肩より少し下まで落ちる髪。
前髪の下の目。
やわらかい口元。
「ほらね」
小さな声。
でも、今日はその一言すらいらなかったのかもしれない。
ミチルは教室を出た。
廊下は明るい。
窓の外では部活の声がする。
ボールの音。
笛。
ただの夕方。
でも、階段を下りながら、さっきの教室の静けさのほうがずっと耳に残っていた。
だれも直接は責めない。
だれも大きくは笑わない。
ただ、全員が同じように少しずつ遠ざかる。
その遠ざかり方だけで、人が決まる。
次の日の朝。
ミチルが教室へ入ると、だれも何も言わなかった。
それがいちばんはっきりしていた。
「おはよ」も、
「また来たんだ」も、
「気をつけてね」もない。
ただ、前の列の子が少しだけ椅子を寄せる。
後ろの子が机の端へかばんを置く。
通路が細くなる。
ミチルが通れるだけの幅はある。
でも、それ以上はない。
空気だけで、そうなっている。
ヒナがノートの角をそろえる。
サエが口元を押さえて笑う。
ユウタが椅子にもたれる。
タクミが前髪を払う。
リオが袖を少しまくる。
それぞれは、それぞれの朝をしているだけに見える。
それなのに、教室全体は一つの顔をしていた。
ナナカは頬杖をつき、窓のほうを見ていた。
その横顔は静かだった。
もう、だれか一人が決めている感じではない。
決まったものの中に、みんなが自然に乗っているだけ。
ミチルは自分の席へ向かった。
通路の細さ。
机の距離。
視線の薄さ。
だれも言わない。
だれも止めない。
だれもはっきり拒まない。
そのかわり、この教室の空気だけが、もう完成していた。
悪いのは、ミチル。
その言葉すらなくても、
教室の全部がそう言っていた。
コメント
1件
読み終えました。 この「空気で人を追い詰める」構図の描き方が、本当に怖いくらいリアルで……しかも直接手を出す人がいないからこそ、余計に息苦しかったです。「普通」という言葉が何度も出てくるたびに、その言葉の重みが変わっていく感覚がぞっとしました。ナナカの「わかる」の一言だけで空気が固まっていく流れ、あれが一番恐ろしい。だれも悪者にならずに、みんなが同調していくプロセスが丁寧に書かれていて、読み終えたあとも胸の奥にずしんと残りました。 柘榴とAIさん、今週も丁寧な描写をありがとうございます。この「音の向き」とか「半歩の距離」とか、言葉にしにくいものを掬い上げる表現が本当に上手いなあと毎回唸っています。続きも楽しみにしていますね。