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朝というより、夜の名残がまだ濃く残る時間だった。
窓の外にうっすらと光が滲み始める頃、怜央菜はキッチンに立っていた。
指先でカップの縁をなぞりながら、冷めきったコーヒーを一口すする。
階段を下りる足音。
振り返ると、颯馬が眠たげな顔で現れた。
頬には薄い痣のような影があり、昨夜の苛立ちの名残がそこかしこに滲んでいる。
「……朝から機嫌悪そうね」
怜央菜の声は、微笑の形をした刃物のようだった。
「別に」
颯馬は冷蔵庫を開け、牛乳をそのまま口に含む。
「“別に”がこの家の口癖になってきたわね」
怜央菜はため息まじりに言い、椅子に腰を下ろした。
「昨日の音、二階まで聞こえてた。晃司もね、笑ってたわよ」
颯馬の目がわずかに動く。
「……あいつ、うるせぇんだよ」
「晃司が? それとも遥が?」
怜央菜の問いは、柔らかく、それでいて逃げ道を潰す。
返事がない。
怜央菜はカップを置き、頬杖をついた。
「颯馬。ねえ、あなた、本当に遥のことが嫌いなの?」
その一言に、空気が変わった。
颯馬はわずかに眉をひそめ、顔を逸らす。
「あんなやつ、見てるだけでイラつく」
「それ、嫌いって言葉で済ませるの、もったいない気がするけど」
怜央菜の声は、低く、甘く響く。
「“気になる”とか、“支配したい”とか、そういうのじゃない?」
颯馬は舌打ちした。
「やめろよ、そういう言い方」
「図星なのね」
怜央菜の唇がふっと緩む。
「あなた、気づいてないだけ。あの子を壊したいって言いながら、
本当は“日下部の方”を壊したいんでしょ?」
その名が出た瞬間、颯馬の指がぴくりと止まった。
怜央菜はその反応を逃さず、さらに言葉を重ねる。
「ねえ、颯馬。あなた、あいつのこと知ってるわよね。
私の“昔の友だち”で、今は――遥の“恋人”」
「……だから?」
「だから、あなたが遥を殴っても、泣かせても、
結局あいつはあの子を“守ったつもり”になって終わり。
誰もあなたを見ない。
あの子を壊したいなら――もっと上手くやらないと」
怜央菜の目が、細く笑っていた。
その瞳には冷たさしかない。
「痛みは慣れる。でも、言葉は残るのよ」
「何が言いたい」
颯馬の声が低くなる。
怜央菜は立ち上がり、ゆっくりと弟の肩に手を置いた。
「“日下部が本気でお前を信じてたのか”――
それを遥の口から言わせてみなさい。
壊すなら、その瞬間よ」
颯馬の喉が小さく鳴った。
怜央菜の指先が肩から離れるとき、
そこには温度のない微笑だけが残った。
その数分後、
遥は二階の廊下で立ち尽くしていた。
階下から漏れ聞こえる会話の一部を、耳が勝手に拾ってしまったのだ。
“言葉は残る”。
怜央菜の声が、何度も反響する。
まるでそれ自体が呪いのように。
喉が乾き、胸が冷たくなる。
誰にも助けを求められない。
それがこの家の唯一の「ルール」だった。