夜が落ちてから、ずいぶん経っていた。 蛍光灯の光を避けるように、遥は暗い部屋の隅で膝を抱えていた。
窓の外では、風に混じって犬の遠吠えがかすかに聞こえる。
息を潜めても、心臓の音だけが耳の内側で暴れている。
階段の軋む音。
それだけで全身が強ばった。
ドアの前に、足音が止まる。
取っ手が回される音。もちろん鍵はない。
ゆっくりと扉が押し開かれ、颯馬が姿を現した。
「……またそんなとこにいんの?」
淡々とした声。けれど、その奥には熱を孕んだ苛立ちがある。
遥は顔を上げられなかった。
「……眠れなくて」
かろうじて出た声は、乾いて掠れていた。
「眠れないやつが、部屋の隅で震えてんのかよ」
颯馬は笑った。
その笑いは、怒鳴り声よりも冷たかった。
「なあ、さっき怜央菜に聞いたんだけどさ」
颯馬はドアを閉め、壁にもたれた。
「お前、あの日下部ってやつと、付き合ってんだって?」
その名を出された瞬間、遥の喉が詰まる。
返事はない。だが沈黙そのものが肯定になってしまう。
颯馬の唇がゆがんだ。
「……マジかよ。気持ち悪ぃ」
足音が近づき、ベッドのすぐそばに立つ。
「なんであんなやつに拾われたみたいな顔してんだよ。哀れに見られるのがそんなに好きか?」
「違う……」
声が掠れた。けれどその否定すら弱い。
颯馬はしゃがみ込み、遥の顎を乱暴につかんだ。
「じゃあ何? お前、本気であいつのこと信じてんの?」
「……」
「信じてんなら言ってみろよ。あいつ、お前のどこを見てる?
優しいとこ? 傷ついた顔? それとも、誰でも抱けるくらい壊れてるとこ?」
言葉の一つひとつが、皮膚の下に針のように刺さる。
遥は顔をそむけようとするが、掴まれた顎がそれを許さない。
「やめろ……」
「やめない。怜央菜が言ってた。言葉は残るってな」
颯馬は囁くように言い、さらに顔を近づけた。
「お前、どうせあいつにも触らせたんだろ。
“俺は汚れてる”って言いながら、誰かに抱かれたくてたまんねぇんだ」
遥の体が震える。
頭の奥で、何かが崩れる音がした。
息が詰まり、声が出ない。
「……違う」
やっと絞り出した声は、自分のものとは思えなかった。
「俺は、そんなつもりじゃ……」
颯馬の指が顎から離れ、ゆっくりと後ずさる。
代わりに、笑い声が静かに落ちた。
「そうやって言い訳してる間に、お前のこと信じるやつなんかいなくなんだよ」
低い声が部屋を満たす。
「可哀想だよな。あんな真面目そうな顔してるくせに、
日下部も結局、壊れてくお前を見て楽しんでるだけだ」
遥は顔を上げた。
その瞳に浮かんでいたのは、怒りではなく、純粋な恐怖だった。
颯馬はそれを見て、満足したように微笑んだ。
「ほら、そういう顔。
お前の“本音”はそれだろ。誰かに壊されたい顔」
言葉が終わると同時に、部屋の明かりが落とされた。
暗闇の中、颯馬はドアを開け、何も言わずに出ていく。
その背中が消えたあと、静寂だけが残った。
遥はしばらく動けなかった。
何を否定していいのかもわからないまま、
ただ息をするたびに、喉の奥が焼けた。
怜央菜の言葉が、もう一度脳裏をよぎる。
――「言葉は残る」。
その通りだった。
颯馬の声が、今も胸の奥でゆっくりと反響している。
どれだけ息を殺しても、消えてくれなかった。
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