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第30.5話:静かな施行の日 ― 祈りが消え、影も消えた国で
■ 朝のニュース ― “信じる自由”がなくなった日
七月一日、朝七時。
湿った夏の光の中、朝の情報番組が始まる。
キャスターの絵里奈(36)は淡緑のブラウスに灰のジャケット。
髪はすっきりまとめ、水色のピンが光っている。
画面右上には大きく表示されていた。
精神象徴整理法 本日施行
絵里奈は、感情を抑えた穏やかな声で読み上げる。
本日より、大和国では精神象徴整理法が全面施行されます。
宗教的象徴、霊的表現、祈念行為を公共空間から段階的に排除し、
安心価値を基準とした生活環境へ移行することを目的としています。
画面には整理された図が映し出される。
旧寺院は安心センター(病院、役所、避難所、相談窓口、監視拠点を一体化した複合施設)の転換。
墓地は地下処理後、安心公園として再整備。
宗教施設跡地は心理教育ステーションへ。
霊的表現や心霊概念は教材および放送から削除。
続いて、別の図が差し込まれる。
死者処理は再循環安心処理法に基づき、
セイレン葬を標準形式として運用。
遺体は個別容器で溶解処理され、
水と空気へ還元後、都市循環系へ戻されます。
絵里奈は淡々と続ける。
霊的因果は非科学的であり、
市民の不安を生む要因となるため、
大和国は明確にこれを排除していきます。
霊的現象は起こらないものとして扱う。
その価値観が、法律として正式に固定された朝だった。
■ 元墓地 ― “霊のいない世界”の公園へ
午後。
淡桃のTシャツに灰のスカートの少女・結羽(9)は、
母の梨花(35)に手を引かれ、
新しく整備された安心はらっぱ公園へ向かっていた。
梨花は淡緑のカーディガンにモカのパンツ。
髪を低めに束ね、水色のヘアバンドをつけている。
この場所は、十数年前まで寺院と墓地が混在していた区画だった。
今は芝生が広がり、
地中に埋め込まれた温感板が一定の涼しさを保っている。
結羽は目を輝かせる。
きれい。
走り出した足元に、透明なプレートが埋め込まれている。
精神象徴整理済
地下処理完了
安心公園化プロジェクト
少し離れた場所で、
灰のシャツに薄緑のベストを着た年配の男が立ち止まっていた。
元僧侶。
髪には灰が混じり、
指先には、かつて数珠を扱っていた癖が残っている。
結羽が近づく。
ここって、むかしお墓だったの?
男は一瞬だけ視線を遠くに向け、
それから穏やかに笑った。
そうだね。
でも今は、もう残っていないよ。
どこにいったの?
水に還ったんだ。
セイレン葬っていう方法でね。
結羽は首をかしげる。
こわくないの?
男は首を横に振る。
こわくないよ。
みんなが、こわいと思わなくなったからね。
そのとき、公園のスピーカーが静かに鳴る。
霊的概念に関する会話は、誤解を生む可能性があります。
安心のため、正しい知識でお過ごしください。
結羽は驚いて、すぐに笑った。
そっか。
霊とかいないんだもんね。
梨花もうなずく。
そうよ。
水に還ったら、それで終わり。
安心なんだから。
男はそれ以上、何も言わなかった。
祈りも、影も、
信じる人がいなくなれば、
役目を終えるのだと知っていたから。
■ 心霊現象が消えた理由
法律の施行と同時に、社会の前提は完全に変わった。
幽霊は誤情報。
心霊番組は放送終了。
学校では認知錯覚として整理。
監視カメラは影の異常を自動補正。
水へ還る死が標準化され、
死後に残るものは存在しなくなった。
信じる人がいない世界では、
現象は発生しない。
それが、大和国の現実だった。
■ 夜のニュース ― セイレン完了報告
夜八時。
絵里奈が再び画面に映る。
本日、全国で精神象徴整理法および
セイレン葬移行の初期運用が静かに開始されました。
本日処理件数は想定範囲内で、
すべて安心循環系へ正常に還元されています。
画面には淡緑の数字が流れる。
旧宗教象徴撤去率 97%
セイレン完了報告 正常
霊的問い合わせ件数 前年同期比 0.1%
街は静かに、
影のない世界へ完全に移行していった。
■ 結び ― 影の消えた場所で
夜の公園。
元僧侶の男は、
かつて本堂があった場所を見つめていた。
そこには芝生と光だけがある。
水へ還った人々の痕跡は、
どこにも残らない。
男は胸の奥で、言葉にならない感覚を抱えたまま、
ただ立ち尽くす。
祈りが消え、
影が消え、
死さえも循環に溶けた国。
それが、大和国の安心だった。
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