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#ハッピーエンド
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三十一階層——《試練の間》。
そこは、前と同じく「何もない」空間だった。
天井も壁も床も、すべてが均一な白に塗りつぶされている。目で距離を測ろうとしても、視線は途中で行き場を失う。足裏にだけ、硬さと冷たさが残り、「ここが地面だ」と身体の方が判断していた。息を吐く音すら戻ってこない。耳の奥がじんじんと鳴り、鼓動だけが妙に大きい。
中央に、台座がぽつんと置かれている。それだけが、空間の“中心”だと分かる唯一の印だった。
『おめでとう。エルダードラゴンを倒すとは、少し驚いたよ』
声が落ちてきた。
どこを見ても発信源がない。天井に目を向けても、床に目を落としても、音の位置は動かない。男か女かも判別できない響きが、均質な白に染み込んでいく。
ダリウスは肩を一度上げ、吐息を短く落とした。鎧の擦れる音もないのに、その動きだけがやけに目立つ。
「おかげさまでな。……何とか倒せた」
オットーは頭をぼりぼりと掻く。指が髪の根を引っかき、爪がこすれる音が小さく鳴った。そういう生活音まで、この部屋では浮く。
「本当に厄介なダンジョンだぜ、ここはよ」
エドガーは鼻梁のあたりを指先で押さえ、指を離すまでの間に長く息を吐いた。目を閉じない。閉じると、白に呑まれそうだからだ。指先の跡が一瞬、皮膚に残った。
「……まったく、 心臓に悪い」
三人の横で、ミラはくるりと一周した。足音が返らないのを確かめるみたいに、つま先が一度だけ床をこすった。唇に人差し指を当て、首をかしげる。授業で順番を当てられる前の、あの癖がそのまま出る。
「今回はだれ?」
『ミラ。君だ』
即答。
ミラの瞳が一瞬だけ大きくなる。次に、背筋がぴしっと伸びた。肩が上がり、手が体側に揃う。自分でもよく分からないまま、身体が礼の形を作っていた。
「ミラ、十六歳です。よろしくおねがいします!!」
声が白い壁に吸われ、戻ってこない。
沈黙。
オットーの手が止まった。ダリウスの視線が、ミラの足元へ落ちる。エドガーは口を開きかけ、閉じる。
『…………』
返事の代わりに、“間”だけが落ちた。無機質なはずの声が、言葉を探しているようにも聞こえる。
次の瞬間、
「わっ」
ミラの足元から光が立ち上がった。床の白とは違う白。輪郭を舐めるように這い上がり、膝、腰、肩へと一気に広がる。髪の色が薄くなり、顔の線が溶ける。指先が、光の中で輪郭を失う。
ダリウスが一歩踏み出す。手を伸ばす。指が届く前に、光が一段強く脈打った。
ミラの姿が、ふっと消えた。空間に残ったのは、白い床と、台座と、三人の呼吸だけだ。
*
白い光が、いきなり「色」を取り戻した。
鼻に、血の匂いが刺さる。祈りの声が重なり、金属が触れ合う乾いた音が続く。さっきまでの無音が嘘みたいに、音が押し寄せた。
そこは、神殿付属の治療院だった。
石造りの高い天井。壁には女神の紋章を刻んだタペストリー。床には祈祷文様。石の冷たさの上を、人が走るたび布が擦れ、靴音が跳ねる。
中央に治療台が二つ。淡く光る魔導具が組み込まれ、脈動を示す光がかすかに点滅している。そこに、血に濡れた布を巻かれた男女が横たわっていた。
「癒しの水路を絶やすな! 魔力の循環を維持して!」
白い法衣の治癒師が叫ぶ。額の汗が頬を伝い、顎で切れる。見習いが碗を運び、水晶板を置き、別の見習いが布を替える。誰かが躓き、器が鳴った。
「……っ、出血が多すぎる……もう一基、祈祷具を!」
床に埋め込まれた魔法陣が赤と青を交互に瞬かせる。治療台の側面の水晶盤が、短く、短く光る。
その喧噪から少し離れた柱の陰。小さな影がうずくまっている。
金色の髪の幼い少女。膝を抱え、背を丸め、肩が細かく上下している。
ミラだった。
それを見た瞬間、今のミラの胸が跳ねた。肺が一度縮む。呼吸が詰まり、胸元の布を反射的につかむ。指が布を握り、関節が白くなる。
「……っ、は……っ……」
息が入らない。喉が細くなったみたいに、空気が途中で止まる。視界の端が滲み、幼いミラの輪郭と、今の自分の輪郭が同じ位置で重なる。立っているのに、足裏が遠い。
「……パパ? ……ママ?」
声が勝手に漏れた。言った瞬間、喉がひりつく。
治療台の上の二人は包帯に巻かれ、隙間から覗く肌が青白い。唇がかすかに震え、胸が小さく上下している。魔導具の光だけが、まだ消えていないことを示していた。
*
『これが、 今回の試練だよ』
耳のすぐそばとも、頭の奥ともつかない場所から声が響いた。治療院の喧噪の上に、薄い膜みたいに重なる。
ミラの喉の奥で、言葉にならない音が弾ける。
「やめて!!」
叫ぶと、腹の底が熱くなった。声が割れ、すぐ次の息が浅くなる。
「こんな……こんな記憶を見せて……! 趣味が悪いわ!!」
指先が胸元の布をさらに握る。膝が緩み、足が半歩だけずれる。踏ん張るのに、足裏が冷たい。
『ちがうよ』
声は温度を変えずに続ける。
『過去として“固定された”出来事じゃない。
本来なら過ぎ去ったはずの瞬間だが——今の君には、事象と時の流れに介入できる権限を与えた』
言葉が耳に入るのに、頭が追いつかない。治療院の音が遠くなったり近づいたりする。
「……っ、ど……どういう、 意味……?」
唇が乾き、舌が重い。次の息が短くなる。
『君が《神光再命》を、 君の両親にかければ——』
心臓が強く打った。胸骨の裏が痛いほど。
『この場の結果は書き換えられる。本当に助かる。
あの日の、 あの後の、 全部の苦しみを消せる。
二度と、 そんな思いをしなくて済むんだ』
その瞬間、
「……ぁ、 あ、 っ……!」
頭の奥に、何かが乱暴に入り込んだ感覚が走った。視界の縁が白く弾ける。治療院の壁が滲み、別の色が被さる。
*
雨が降っていた。
雲が空を覆い、灰色の石畳に雨筋が細く走る。雫が跳ね、冷たい水が靴先を濡らす。
神殿の裏庭。二つの棺。白い布。しおれた花の輪。
「……落盤事故らしいわ」
黒いマントの女が囁く。隣の男が頷く。声は近いのに、目は棺を見ていない。
「親戚の家に引き取られるらしいわよ、 あの子」
「そう。なら……安心ね」
足元に、小さな影。幼いミラ。服の裾をぎゅっと握り、濡れた石畳だけを見つめている。視線を上げれば見えてしまう気がして、首が動かない。
「……いやだよ」
声は薄く、雨に溶ける。
「なんで……? 私が悪い子だから……?」
足元の雨水に、歪んだ顔が映る。瞬きのたびに揺れる。
「いやだ……いやだ……全部、 いやだ……」
雨が強くなり、肩を叩く。布が肌に貼りつく。指が冷える。
景色が暗転する。
*
狭い家の一室。
「なんであんな遠縁の子なんか、 ウチで世話しなきゃいけないのよ!!」
金切り声。テーブルがばん、と鳴る。幼いミラは壁際に身を寄せ、膝を抱え、顔を伏せる。床の木目だけを見ている。
「……私も、 知らないよ……」
声は細い。女は舌打ちして、もう見ない。
場面が滲む。
*
別の家。酒臭い空気。床に瓶。食べ残し。
「おい、 小娘」
男が指を突きつける。瓶を握った手が重い。
「酒、 買ってこい」
幼いミラは隅に立ち、俯いたまま口だけ動く。
「……もう……パパのお金……ない……」
「あぁ?」
次の瞬間、瓶が飛ぶ。ガシャン。床で砕ける。ガラス片が跳ね、足元をかすめる。
「ちっ……使えねぇガキが」
ミラは動かない。視線だけが濡れた床に落ちる。
*
さらにページがめくられる。
「ミラちゃん、 もう大丈夫よ」
暖炉。スープ。柔らかな笑顔。
「辛かったねぇ……ここでは、 ゆっくりしていいのよ」
肩に手が置かれる。幼いミラは口角を上げようとする。頬が引きつる。
「……うん」
女が一瞬だけ目を伏せ、台所へ行く。
「……なんだか、 あの子、 不気味よね……」
囁きが耳に残る。幼いミラの指が服の裾を握り直す。布がきゅっと鳴る。
(……やっぱり)
胸の奥が沈む。息が浅くなる。
*
「——っ、 ぅ、 う……!」
現在のミラは口元を押さえた。胃が反転する感覚。膝が床に当たり、冷たさが骨まで来る。
嘔吐した。
喉が焼ける。涙が勝手に落ち、呼吸が掠れた音になる。袖で拭おうとしても、手が震える。
それでも、治療台の二人だけは見える。包帯の赤。薄い肌。揺れる胸。
光景が歪む。床も壁も天井も淡くにじみ、境目が消える。
『もし、 君の両親を助ければ過去が変わる』
『辛い思いでも全部なくなる。“その代わり”——今の時間軸からは外れる』
「……ど、 どういうこと……?」
睨みつけても、声の形がない。
『試練は失敗。元の空間には戻さない。残りの三人で塔に登ってもらう』
言葉が胸に刺さり、奥で鈍く響く。
「そ……そんなこと、 したら……!!」
喉が詰まる。舌が回らない。
戦いの光景が、頭の奥で点滅する。オットーの血。エドガーの倒れる姿。ダリウスの背中。
「誰が……っ、 誰がダリウスたちを手当てするの!!?」
声が跳ねる。胸が痛い。息が細い。
『気にしなくてもいい』
『君には関係なくなる。両親と幸せに過ごすんだ』
一拍。
『それとも——両親を見捨てるのかい? それもいい。どちらも君の選択だ』
喉が締まる。息が速くなる。胸が上下するのに、空気が入らない。
「そんなの……」
「そんなの……選べるわけ……ない……!」
声が震え、最後が掠れる。
治療台。血。呼吸。
助けられる。光がある。手を伸ばせば、二人の体温に触れられる。
その代わり、
(ダリウスたちは……?)
頭の中で何かが切れる。音はしない。手足の感覚が薄くなる。
「ひっ…は、 ぁ、 っ……」
吐いたのに吸えない。喉と胸が拒む。両手が頭へ伸び、髪を掴み、引っかく。指先が汗で滑る。
「やだ……やだ、 やだ……」
鼓動だけが耳を叩く。景色が遠のき、戻り、また遠のく。
「誰か……」
「誰か……誰か……誰か、 助けて……」
指の隙間から涙が落ちる。床に点が増える。
そして、かすれた喉で名前が出る。
「……ダリウス……」
白い世界が遠ざかる。色が剥がれ、音が薄くなり、匂いも滲んでいく。