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風宮 むぅまろ🦇🍀︎ 🍬🍚
#海辺の町
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夜の洗い場は、昼間よりずっと冷える。熱い湯と冷たい水を行き来するせいで、皮膚の感覚が曖昧になるから危ない。
分かっていたのに、その晩のディアビレは少しぼんやりしていた。フィルムのことが頭から離れなかったせいだ。グラスを拭きながら別のことを考えた一瞬、指先が欠けた縁に触れる。
鋭い痛みが走った。
「っ……」
赤い線がすぐ浮かぶ。大した深さではない。そう思って布で押さえ、そのまま次の皿へ手を伸ばした時だった。
「何してる」
ジナウタスがいつの間にか背後に立っていた。彼は濡れた布ごと彼女の手首を取ると、有無を言わせず蛇口の水にあてる。冷水が傷へ落ちて、ディアビレは思わず肩を震わせた。
「これくらい平気です」
「眠らない人間の平気は信用しない」
そう言いながら、彼は救急箱を開いた。消毒の匂い。白いガーゼ。大きな手が、荒れた指をひどく丁寧に扱う。
「無理は美徳じゃない」
「でも、止まったら仕事が残ります」
「残せ。おまえが倒れる方が面倒だ」
低く叱るくせに、巻かれる包帯は優しかった。指先に触れるたび、胸のどこかが落ち着かなくなる。
「そんな顔しなくても」
「どんな顔だ」
「必要以上に近い人を見た顔です」
ジナウタスは一瞬だけ手を止めた。けれど離れなかった。最後に絆創膏を重ね、彼は彼女の手を握ったまま傷の具合を確かめる。
「これで今日は終わり」
「まだカップが」
「俺がやる」
そのまま握られていることに気づき、ディアビレの呼吸が少し乱れた。彼も気づいたらしいのに、すぐには手を放さない。
洗い場の窓の外で、夜の海が音もなく揺れていた。眠れない人の手は熱いのだと、その時初めて知った。