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伊吹さんは全然覚えていないみたいだけど、僕らは随分と昔に一度会った事がある。『会話』と言えるものすら無い様な、『袖振り合うも他生の縁』といったレベルのものなので、彼女に覚えてもらえていなくても全然悲しくはない。
——あれは僕がまだ中学生の頃。
『子供』から緩やかに『大人』へと成長する過程の多感な時期に、僕は、中性的な顔立ちのせいで色々と無駄な気苦労を重ねていた。それがどうしても嫌で嫌で、長く伸ばした前髪で顔を隠し、ダサい眼鏡で一層顔立ちをわからなくさせて生活していた。
崩す事なく着た学生服に身を包み、鞄を胸にギュッと抱いて道の隅っこを俯きながら歩く。出来るだけ人の輪に入らず、クラスメイトとの交流も持たず、空気の様に俯きながら生きている。——そんな中学生だった。
最初は自分から望んで始めた事だったけど、やっぱりちょっと寂しい。
程良く『普通』の生活が出来たらそれでいいのに、もうその加減がわからない。そんな困った状況になりながらも現状を変えずに下校していたある日の事。前方確認を怠り、通行人の一人にドンッとぶつかってしまった。制服のスカートの裾が視界に入ったから相手はどうやら女性の様だ。
直様顔を上げ、僕は「——す、すみませんっ」と謝った。勢いがあったからか視界がいつもよりも開けている気がする。髪が半端に横に流れて、丁度両の目が晒された状態になった。
気恥ずかしさですぐに俯く。そしてもう一度、「……すみませんでした」と小さな声で謝罪を口にした。
「こちらこそ、ごめんね。急に止まって」
その背にぶつかってしまったのは、僕よりも少しだけ背の高い、細身で明るい雰囲気の女性だった。ハキハキとした、でもふわりと優しい声が耳に心地いい。先生や家族以外が『僕』に声を掛けてきた事が久しぶりだから……ちょっとドキドキしてきた。
謝りはした。変に緊張してきたし、もうこの場を去ろうとしたのだが女性は僕の前に立ったままだ。だからって別に進路を阻まれている訳じゃないんだが、なのに何となく、彼女を避けて前に進むのは抵抗を感じてしまう。
すると目の前の女性が、僕に向かって「——俯いてばかりいたら、綺麗な花も枯れてしまうぞ」と言いながら、子供を相手にするみたいにくしゃりと頭を撫で、太陽みたいに眩しい笑顔を撒き散らしながら去って行った。
照れくさそうに僕から手を離していくシーンが脳裏で何度も繰り返され、僕はゆっくりとした動きで『彼女』が触れてくれた自分の頭にそっと手を置いた。
じわりじわりと顔が熱くなっていき、喜びに体が震え、心臓が煩く騒ぎ出すけどちっとも不快じゃない。名前を聞き損ねてしまった事を後悔しつつ、僕はコレが『初恋』であると自覚した。
◇
『俯いてばかりいたら、綺麗な花も枯れてしまうぞ』
あの日以降。名も知らぬ女性が残した言葉は僕の人生の指針となった。まず手始めに長かった前髪をバッサリと切り、眼鏡ももう少し見栄えする物に買い替えてもらい、しっかりと前を向いて生きる様に自分を変えていった。その分『過度に人に好かれる』という要らぬ苦労が戻ってはきたけど、『初恋』を胸に、主に学歴や技能面において自身を磨いていく事に決めた。
それと同時に僕は『初恋の君』を必死に探し出し、『常盤伊吹』さんという名である事を知った。近傍にある高校に通う学生で、あの時は陸上競技をやっていたらしいのだが、最近怪我をして引退したそうだ。
……だからか、彼女を見掛けるたびに、少しずつ元気がなくなっていっていた。
出逢った時はやや男勝りっぽかったのに、上を向いて歩くタイプだったのに、今の僕とは真逆の方向に変化していった。大輪の花が元気をなくしていく姿が僕の心に重くのしかかる。だけどまだガキな自分じゃ何も出来ない。気持ちを伝える事すらも出来やしない悔しさを抱えながら、僕はそっと伊吹さんを——
見守り続けた。
◇
僕がやっと大学を卒業を目前に控えた頃。
居酒屋で学生時代の友人と飲んでいる伊吹さん達と近い席に座る事が出来た日があった。酔ってるからか声が大きく、嬉しい事に会話が丸聞こえだ。
『久しぶり、元気にしてた?』から始まり、伊吹さんの近況がどんどん僕の耳に届く。他の人達の情報までもが入ってくるのはいただけないが、ノンアルのドリンクを飲み、一品物の料理をちまちまと口にしていると有益な会話をし始めてくれた。
『恋バナ』がスタートしたのだ。
伊吹さんに彼氏がいない事は知っている。今までも、そして《《これからも》》。彼女に興味を持つ者達は悉く行動に踏み出す前に僕が『説得』してきたからいるはずがないのだ。だからか、友人達は伊吹さんに「どんな人が好みなの?」と訊いてくれた。「イイヒトいたら、紹介してあげる」という余計な一言もあったが……そこは聞き流し、耳を澄ませていると「んー……清楚系?」と伊吹さんが言った。
「んでぇ、『もう会社なんか辞めていいよぉ、俺が養ってあげるよぉ』って言われたい、ですっ!」
「酔ってんなぁ」と笑いながら友人がつっこむ。
「もういっそ監禁されたいっ!家から出たくないっ」と伊吹さんが可愛く嘆く。就職先に恵まれず、優しくて忍耐強い伊吹さんは周囲の仕事を押し付けられがちで『都合のいい社員』状態だから疲労とストレスがピークに達しているのだろう。今日のこの飲み会に参加する為に、昨日までの日々を残業漬けにして無理に時間を空けたくらいに仕事が多いのだから無理も無い。部下への仕事配分に私情を挟む上司、わからないですぅと嘘泣きで仕事を押し付けてくる後輩に挟まれて、給与も上がらずでは、この発言も理解出来た。
(……そのくらいなら、僕が叶えてあげられるな)
伊吹さんの隣に並び立てる様な男になろうと今の今までコツコツ頑張ってきたんだ。……そろそろ僕が手を伸ばしてもいいはずだ。
次に日にはもう、伊吹さんのお母さんである千歳さんと知り合うべくスーパーに通い、荷物を運ぶ手伝いをするなどして距離を詰めていき、数ヶ月を費やして、今ではもう「ウチの子と結婚したらいいじゃない!」と言わせるまで仲良くなった。
◇
——重たい瞼を開き、上半身を起こして隣に顔をやる。伊吹さんはまだぐっすり眠っていた。明日も仕事だけど、後で僕が退職代行サービスにでも連絡しておいてあげよう。真面目な伊吹さんには、『引き継ぎもせずに辞めさせるのは大人の行動じゃない』と怒られるかもだけど、そもそも会社側が散々伊吹さんを利用し尽くしてきたんだ、そのくらいの苦労は背負ってもらわねば僕が納得出来ないから言いくるめてしまおう。
「……起きたら、新居に引っ越そうね。ちゃんとね、しがらみの無さそうな辺鄙な場所に僕らの家を用意しておいたんだよ」
どんなに声を上げようが誰にも聞こえない。そんな場所だ。
「楽しみだなぁ……。伊吹さんは運転免許も持ってないから、僕がいないとまともにお出かけも出来ないけど、まぁいいよね」
ふふっと笑い、伊吹さんの髪を一房掴み持ち、口付けを贈る。彼女の為にどんな部屋を用意したのかを思い浮かべるだけで体がゾクッと震えた。大事に、大事に。隠して、閉じ込めて。『僕ら二人で幸せになろうね』と、改めてそう伝えるのを楽しみにしながら、僕は伊吹さんが逃げられない様しっかりと腕に抱き締め、再び眠りに堕ちていった。
【完結】