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蝶舞(かれん)@常にスランプ
#女主人公
46
カイルは帝国支配下の同盟国および本国から
十万の兵力を動員し、ヴァンガルド帝国への侵攻を開始した。
開戦直後、帝国軍の一部を発見したが、
あと一歩のところで取り逃がす。
さらに最初に占領した都市は、すでにもぬけの殻だった。
カイルは侵攻前から、
この遠征で食糧の現地調達は困難であると見抜いていた。
そのため後方に補給拠点を築き、
兵站線を伸ばしながら進軍する慎重な侵攻を選んでいた。
だが――
敵は戦わない。
都市を捨て、物資を運び去り、
追いつけば消える。
占領しても得られるのは空の倉庫と静まり返った街だけ。
勝っているはずなのに、軍は一歩進むごとに削られていった。
サイラスは、カイルが凡庸な将ではないことを知っていた。
だからこそ現地調達を潰しただけでは足りない。
補給そのものを、距離で殺す必要があった。
帝国軍はのらりくらりと戦いを避け、
その身を巧みにかわし続けた。
カイル軍は敵を追い、都市を占領し、
地図の上では確実に前進していた。
だが――そこに価値はなかった。
占領した領土は増えていく。
しかし、得られるものは何もない。
何よりカイルを苛立たせたのは、
万全のはずの補給であった。
後方には確かに補給拠点が築かれている。
食糧も弾薬も、計画通りに送り出されている。
だが帝国は、道を壊した。
橋は落とされ、街道は掘り返され、
輸送路は寸断される。
補給は「存在する」のに、前線へ届かない。
進軍は鈍り、停止し、
再び動き出すころには――敵はいない。
カイルは理解し始めていた。
戦わせないための戦いであることを。
折も折、カイルのもとに想定外の報告がもたらされる。
進軍とともに、軍の人数が減っているというのだ。
戦闘ではない。
逃亡でもない。
――病である。
報告によれば、赤痢と思われる感染症が、
すでに複数の部隊で広がっていた。
はじめは数名。
やがて一個小隊。
そして気づけば、隊列の各所で同時に倒れていく。
放棄された都市に残されたわずかな水源。
それが、兵を内側から蝕んでいた。
医官たちは手を尽くした。
隔離、煮沸、薬草――
だが、追いつかない。
進軍を止めれば補給が尽きる。
進めば病が広がる。
カイルは歯を食いしばった。
これには――
打つ手がなかった。
そうこうしているうちにも、
カイル軍団の進撃は止まらなかった。
敵はいない。
都市は落ちる。
地図は塗り替えられていく。
――それでも。
カイルの胸中には、拭いきれない違和感があった。
あまりにも順調すぎる。
あまりにも、手応えがない。
知らず知らずのうちに、
巨大な罠の中へ踏み込んでいるのではないか。
その疑念が、ゆっくりと頭をもたげていた。
だが――
「ならば、どこで止まる」
自問しても、答えは出ない。
ここで引けば、すべてが無に帰す。
進めば、何かが壊れていく。
カイルは理解していた。
これはもはや、戦術ではない。
選択そのものが、戦場なのだと。
「首都を落とせば終わる。それだけは確実だ」
ヴァルドとサイラスは、
あまりにもうまく進みすぎている現状に、
同時に疑念を抱き始めていた。
サイラスは静かに言う。
「順調に推移しております。――ゆめゆめ油断なきよう」
そして一拍置き、
「私は、カイルの占領地となった諸国へ赴き、
大同盟への参加を要請してまいります」
それだけを告げると、サイラスは去った。
扉が閉まる。
静寂が落ちる。
ヴァルドは、ゆっくりと席に着いた。
やがて筆を取り、
一通の手紙を書き始める。
書き終えると、呼び鈴を鳴らした。
現れたのは、副官ベルリッツ。
「これを、セントペテルの皇帝陛下へ届けよ」
ヴァルドの声は低く、揺るがない。
「必ずラディスを介し、
――お前自身の手で渡せ」
ベルリッツが頷くのを確認し、
ヴァルドはさらに続けた。
「これから言うことは、紙に書き残すな」
一語一語、刻むように言う。
「すべて記憶し、
お前の口から、陛下へ伝えよ」
そして、わずかに間を置く。
「なお――任務を終えた後、
お前はここへ戻るな」
ベルリッツの表情がわずかに揺れる。
「以後は、陛下の命に従え」
それは命令であり、
同時に――別れであった。
ベルリッツが去った後、
ヴァルドは一人、地図を見つめる。
カイル。
この数ヶ月で、十分に理解した。
あれは――軍事の天才だ。
侮れば、死ぬ。
正面から勝てる相手ではない。
ならば。
ヴァルドは、ゆっくりと目を閉じた。
勝つことによる油断
カイルの望む戦場を用意し、
カイルの望む勝利を与える。
その果てにのみ――
この戦いは終わる。
そう結論していた。
皇帝のもとに届けられた手紙には、
まず、先帝と過ごした日々への深い感謝が綴られていた。
それは、ひとりの臣としての、
静かな回想であった。
続いて、カイル軍との戦いを通じて得た知見――
帝国軍に必要な軍政改革の提言が、
簡潔かつ的確に記されていた。
組織、補給、指揮系統。
いずれも、敗北の中から掴み取った現実である。
そして、
ベルリッツから
「陛下の子たる多くの帝国臣民を失うこと、
その責、すべて我にあり、ここに詫び申し上げますとのことでした」
それは報告ではなかった。
弁明でもない。
――覚悟であった。
報告が入る。
帝都近郊、ボロギヌにて――
両軍、激突。
戦闘は激烈を極め、
双方に多数の死傷者を出した模様。
一拍。
伝令は、最後の一文を告げた。
「……ヴァルド将軍、戦死」
室内の空気が、止まる。
「なお――」
その先を、誰も望んでいなかった。
「カイル軍、帝都へ入城いたしました」
沈黙。
誰一人、言葉を発さない。
それが何を意味するのか、
そこにいる全員が理解していた。
報を聞き終えた皇帝は、
しばし沈黙した。
やがて、ゆっくりとラディスへ顔を向ける。
「……ボロギヌなら、逃げられたではないか」
その声には、かすかな震えがあった。
「それでも、あやつは退かなかったか」
一瞬だけ、目を伏せる。
そして――
「許せ」
誰に向けた言葉かは、明らかだった。
「これで……帝国は救われた」
静かに言い切る。
「ベルリッツに命じよ。
このセントペテルにて軍を再編せよ」
わずかに間を置き、
「予自らが――追撃の指揮を執る」
その言葉は、もはや宣言であった。
そこに、かつてアウストリーテで
逃げ惑っていた男の姿はない。
敗北に怯え、決断を他者に委ねていた皇帝は、
もういなかった。
残っていたのは――
帝国を背負い、
すべてを受け入れた、覚悟を決めた男の姿であった。
その覚悟が、いくつの命の上に成り立っているのか――彼は知っていた。
カイルは、ボロギヌでの勝利の後、
セヴェリウス皇帝の逃亡先であるセントペテルへ、
講和の使者を送った。
当初、夏には終わると見込んでいた侵攻作戦。
それは想定をはるかに超えて長引いたが――
ようやく、一段落した。
軍は、久しく忘れていた安堵に包まれていた。
救国の大将軍ヴァルドを討ち取り、
帝都へ入城した。
戦略的にも、政治的にも、
これ以上ない戦果である。
――のはずだった。
だが。
街には人がいない。
略奪も散見されたが
倉庫は空。
釜には火が入っていない。
あいかわらず、食糧は手に入らなかった。
補給は遅れ、
病はなお兵を蝕み、
馬は日に日に数を減らしていく。
それでもカイルは、
この帝都に留まることを選んだ。
「……講和の返事を待つ」
それが最善であると、
信じるしかなかった。
時間は、すでにカイルの側にはなかった。
秋は過ぎ、やがて冬が訪れた。
だが――
来るはずの講和の返事は、ついに届かなかった。
伸びきった補給線は、
絶えず騎馬部族の襲撃にさらされていた。
護衛の兵は削られ、
輸送は滞り、
届くはずの糧は、ことごとく失われていく。
当初、十万を誇った侵攻軍は、
すでに三万を割り始めていた。
戦って減ったのではない。
病と、飢えと、寒さ。
そして――時間に削られた。
カイルは、ついに決断する。
「……撤退する」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
勝利を手にしたはずの軍が、
敗北を認める瞬間だった。
だが。
その道は――
救いではない。
さらなる苦難の、始まりでしかなかった。
鷲の紋章を掲げた皇帝旗が、
冷たい風にきしむように揺れていた。
カイルはそれを見上げ、静かに目を閉じる。
かつては勝利の象徴だったその旗も、
今はただ、空虚に空を切っている。
隣でネロが呟いた。
「……無事、帰れますかな」
風の音に紛れそうな、弱い声だった。
カイルは目を開ける。
しばしの沈黙。
「帰って見せるさ」
その言葉だけが、妙に強く響いた。
だが――
軍は、すでに軍ではなかった。
隊列は崩れ、
荷車は捨てられ、
倒れた者は振り返られることもない。
雪が降る。
音もなく、容赦もなく。
白はすべてを覆い隠し、
生と死の境界すら曖昧にしていく。
補給は絶え、
口にするものは凍った革と、わずかな残り滓。
馬は次々に倒れ、
やがてその肉が兵の糧となった。
歩みは遅れ、
止まれば死ぬ。
進んでも――死ぬ。
それでも、進むしかない。
遠く、地平の彼方に黒い影が現れる。
騎馬だ。
帝国の部族騎兵が、
獲物を見つけた獣のように迫ってくる。
「来るぞ!」
声が飛ぶ。
だが、応じる力はもう残っていない。
その時――
一隊が、静かに進み出た。
「逃げるな、踏みとどまって戦え!」
誰かが言った。
足を止める者たち。
振り返らない者たち。
雪の中に、影が溶けていく。
やがて、遠くで火が上がる。
叫び声は、風にさらわれて消えた。
行軍は続く。
人は減り、
声は消え、
ただ足音だけが、乾いたリズムを刻む。
カイルは振り返らない。
振り返れば、止まってしまう。
止まれば――終わる。
ふと、風が強く吹いた。
皇帝旗が大きくはためく。
鷲が、空を切る。
だがその翼は、もはや高くはなかった。
「……ネロ」
カイルは前を見たまま言う。
「なんでしょう」
「鷲は、まだ飛んでいるか」
ネロは答えなかった。
答えられなかった。
ただ、旗を見上げる。
その鷲は――
風に流されるように揺れていた。
「皇帝陛下、しんがりは任せてもらえますか」
ネロは、いつもと変わらぬ口調で言った。
カイルは一瞬だけ目を細める。
「……今回ばかりは、死ぬかもしれんぞ」
「生き延びて見せますよ」
即答だった。
その軽さが、かえって重い。
カイルはふっと息を吐く。
「帰って、肉とワインを用意して待っている」
ネロは笑った。
「約束ですよ」
それだけ言って、背を向ける。
振り返らない。
数日後――
ネロはヴァンガルド軍に包囲された。
吹雪の中、
わずかな兵を率いて敵を食い止める。
一歩も退かない。
退けば、後ろが死ぬ。
激しい戦闘の末、
その地は陥落した。
ネロの名は、帰らなかった。
「……ネロも死んだか」
焚き火の前で、カイルが呟く。
火のはぜる音だけが、静かに響く。
「いいやつだった」
目を閉じる。
その時――
遠くで、ざわめきが起こる。
「……なんだ」
兵たちがざわついている。
カイルは立ち上がり、そちらへ向かう。
雪をかき分ける音。
ひとつの影が、ゆっくりと近づいてくる。
ぼろぼろの兵士だった。
衣は裂け、
顔は血と泥にまみれ、
歩くのもやっとだ。
それでも――
前へ進んでくる。
カイルの目が見開かれる。
「……ネロか?」
男は、顔を上げた。
そして、かすかに笑う。
「いや……すいません」
かすれた声。
「晩餐会に、遅れまして」
周囲が静まり返る。
「……道が、混んでいまして」
一瞬の沈黙のあと――
カイルは、思わず笑った。
「……勇者すぎるぞ、お前」
ネロは肩をすくめる。
そのまま――崩れ落ちた。
カイルは、静かに言った。
「――鷲は、まだ落ちておらぬ」
その声には、確かな意志があった。
敗北ではない。
これは、終わりではない。
そう信じることでしか、
前には進めなかった。
本国へ帰還すると、
カイルは間を置かず軍の再編に取りかかる。
かき集められた新兵。
急造の部隊。
かつての精鋭とは、明らかに違う。
それでも――軍は再び形を取り始めた。
だが、世界はすでに変わっていた。
旧ヴァンガルドに配置した傀儡の王国は、
すべて離反。
旗を翻し、
かつての主に刃を向ける。
その背後には――
サイラスの影があった。
各国は結びつき、
ひとつの巨大な意志となっていた。
もはや局地戦ではない。
これは――世界を賭けた戦い。
やがて両軍は、ライプラルの地にて対峙する。
地平の果てまで続く軍勢。
北に敵。
南に敵。
東にも、西にも。
風が吹く。
その中で、皇帝旗の鷲がはためく。
だが――
かつてのように空を支配する姿ではない。
囲まれている。
完全に。
カイルはそれでも、前を見た。
「中央を突破する」
それが唯一の活路であった。
かつての常勝カイル軍団とは違い
その力は残されていなかった
ヴァンガルド軍は、旧来の軍から脱却しつつあった。
軍制改革は、なお途上にある。
だが――
それは確かに、生まれ変わっていた。
指揮は統一され、
補給は整い、
各軍は互いに連携して動く。
かつての寄せ集めではない。
ひとつの「軍」として完成しつつあった。
一方で――
カイル軍団の優位性は、すでに失われていた。
ロシア遠征において、
その精鋭の大半を失っている。
残されたのは、急ごしらえの新兵と、
疲弊しきった生き残り。
かつて戦場を支配した軍団は、
もはやそこにはなかった。
新たに編成された軍は、形こそ整っている。
だが中身は違う。
経験がない。
耐久がない。
そして――
死地を踏み越える“慣れ”がない。
その軍で、包囲を受ける。
それが何を意味するか。
カイルは、理解していた。
この戦場において、
もはや自らは“強者”ではない。
加えて、カイルにとって最大の不幸は――
頼りとすべき将軍たちが、
各地で分断されていたことにあった。
旧ヴァンガルド領各地で蜂起した軍勢。
それに呼応する同盟軍。
彼らは巧みに戦線を広げ、
カイル配下の有力な将軍たちを、
それぞれの戦場に釘づけにしていた。
呼び戻そうにも、間に合わない。
集結しようにも、道がない。
結果として、カイルの手元に残されたのは――
本来の力の、ほんの一部に過ぎなかった。
カイルは、地図を見つめる。
囲まれている。
完全に。
逃げ場はない。
「……運、か」
小さく呟く。
だが、その言葉を自ら否定する。
違う。
これは偶然ではない。
誰かが、意図して作り上げた布陣だ。
「サイラス!」
「最初から、ここに誘い込むつもりだったか!」