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オットーは夢の中にいた。
そこには血の匂いも、鉄の味もない。代わりに、ぬるい光が霧みたいに漂っている。呼吸をするたび、胸が軽くなる。——軽すぎて、怖い。
ふと、輪郭が結ぶ。
栗色のショートヘア。ローブ。胸元に揺れる女神のネックレス。
ジェリーが、まるで「遅いよ」とでも言うみたいな顔で立っていた。
「……ジェリー」
オットーは思わず笑ってしまった。夢の中の笑い方だ。痛みも重さも置き去りにした、ずるい笑い。
「生きてたのか……」
その声に、別の影が続いた。
バンダナで髪をまとめた、筋骨隆々の男。タッカーだ。相変わらず、強そうな背中のまま——笑っている。
「……タッカー。久しぶりだなぁ」
二人は、何も言わない。
ただ、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
置いていかれる。あの日と同じだ、と胸の奥が冷える。
「待て!」
オットーは手を伸ばした。指先が空を掴む。距離は一歩も縮まらない。
「ちょっと待て! 俺も行く!」
二人が振り返った。
責める目じゃない。怒ってもいない。だから余計に痛い。
ジェリーが足を指した。
タッカーが腕を指した。
口が動く。言葉の形だけが、霧の向こうで揺れている。
けれど音が、どうしても届かない。
「なんだ……聞こえねぇ……!」
オットーは叫んだ。焦りが喉を裂く。
「何を言ってるんだ! ジェリー! タッカー!」
二人は、まだ笑っている。
それが許しなのか命令なのか、わからないまま——
世界が、ひっくり返った。
「はっ!?」
オットーは跳ね起きた。
肺に冷えた空気が刺さり、胃の奥がひっくり返る。耳の奥で、金属が擦れるような音が残っていた。
松明の火。揺れる影。焦げた臭い。
ボス部屋だ。夢じゃない。
「……気が付きましたか!?」
エドガーの声が飛んでくる。
オットーの方を、ほんの一瞬だけ——確認するみたいに見た。次の瞬間にはもう、魔導書へ視線を戻している。指先が震え、ページの縁に食い込ませていた。
その戻り方が、何より切迫していた。
オットーは理解した。
ここはまだ終わっていない。
そして夢の二人は、だからこそ足と腕を指したのだと。
オットーは、視界の端で“それ”を捉えた。
円形の広間の中央。松明の光を吸い込むように黒い巨体が立っている。魔神。
黄色い目が笑っていた。獲物が足掻くほど面白い、とでも言いたげに。
その手前で、ダリウスが剣戟を繰り出し続けている。
いや、繰り出しているというより、倒れないために振っている。呼吸が荒く、踏み込みが浅い。それでも前に出る。剣が折れるまで、命が切れるまでという覚悟だけが身体を動かしていた。
周囲を見回して、オットーの喉が鳴った。
ミラは床に横たわり、微動だにしない。石化の痕が頬にまで及んでいる。
エリーはマナポーションの瓶を握ったまま、唇の色が抜け落ちていた。
エドガーは魔導書に顔を寄せ、祈りにも似た詠唱を刻んでいる。必死という言葉でさえ足りない、目だけが“間に合え”と叫んでいた。
これが、今の自分たちだ。
そして魔神は、その全部を見下ろしている。
胸の奥で、何かが音を立てて切れた。恐怖ではない。ためらいでもない。
怒りだ。遅れてきた火山みたいな怒りが、夢のぬるい光を焼き払った。
オットーは大斧を握りしめた。柄が軋む。指の関節が白くなる。
「てめぇ……まだ……」
声が喉の奥から絞り出される。震えているのに、やけに通る。
「呑気に……遊んでんのか?」
魔神の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
許さない。
#異世界ファンタジー
バガラジー
「お前のせいでな……!」
オットーの視界に、ジェリーとタッカーの背中が一瞬よぎる。
そして今、目の前にいる仲間たちの顔が、同じ列に並んだ。
「タッカーもジェリーも、ダリウスも、ミラも、エリーも、エドガーも……!」
言葉が割れる。息が熱い。涙じゃない。これも怒りだ。
「ふざけんなよォォォォォ!」
《阿修羅》。
呪いが走った。
血管の中に熱い砂を流し込まれたみたいに、全身が爆ぜる寸前まで張りつめる。
次の瞬間、オットーの巨体は跳んだ。跳躍じゃない。発射だ。
弾丸。閃光。
床を蹴った衝撃が遅れて音になる。空気が裂け、背後の松明が一拍遅れで揺れた。
(キレてんのによ……頭ん中は、妙にスッキリしてるぜ)
怒りの芯だけが冷たい。
夢の二人が指さしたのは、これだ。足と腕。使え、と。
エリーの声が飛ぶ。
「ダリウス、一旦下がって!!」
ダリウスが反射で距離を取る。
その一瞬に、オットーは考え切る。
(そうだ。身体ぜんぶに阿修羅をかけるな……足の、手の一点に集中。爆発させろ)
右足の筋肉が、ぶちぶちと嫌な音を立てた。
負荷で千切れる音だ。だが止まらない。止まれない。
懐へ。
魔神の巨剣が動く前に、オットーは潜り込む。
大斧が風を引き裂き、喉元へ吸い込まれる。
「《阿修羅・十連》!」
一撃目、火花。二撃目、火花。
刃が黒い皮膚を抉り、ようやく血が滲む。硬い。鎧だ。
オットーは歯を食いしばり、右手だけに呪いを絞った。
骨がぎりぎりと軋む。握力が限界を越え、関節が悲鳴を上げる。
入った。
喉元に深い傷。
魔神の笑みが歪む。だが口元はまだ笑っている。喉の奥の唸りが途切れない。獣のうなり声みたいな“起動”が続く。
火花の奥で、巨剣と大斧が噛み合う。オットーの身体が軋む。視界が白く弾ける。
それでも、刃は届いた。
三撃目で右足を——ちぎる。
五撃目で左腕を——むしる。
九撃目で左足を——刈り取る。
魔神が膝をついた。
黄色い目に、初めて恐怖の形が宿った。
だが、動きは止まらない。
口が動くたび、空気が歪む。何かが呼ばれようとしている。
最後の一撃。
オットーは振りかぶった。振りかぶったはずだった。
身体が、崩れた。
右腕は筋肉が断裂し、上がらない。
右足の腱が切れ、力が抜け落ちる。
左足は、へし折れた木みたいに曲がる。
床に落ちる瞬間、オットーは笑った。悔しい笑いだ。
それでも、勝ち筋だけは見えている。
視線を、後ろへ。
魔導書にかじりつく男へ。
「……クソが……」
息が血の味になった。
「エドガー……!」
喉が裂けるほど叫ぶ。
「とどめを刺せェェェ!!」