テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
尖塔の最下層。そこは、光という概念が死に絶えた場所だった。数百年の時を吸い込んだ石壁は、沈殿した闇に濡れている。空気は澱み、重く、肺を圧迫するような高密度の魔力だけが、巨大な生物の呼吸音のように低く脈打っていた。
その暗闇の底に――二つの繭が、青白く浮かんでいた。氷の冷たさも、水晶の硬度も、絹の滑らかさも持たないその外殻は、純粋な魔力で丁寧に編み上げられている。空間そのものを楕円に切り取り、内と外の因果を断ち切るための、ソラスによる絶対的な封印構造体だった。
内側では、時間は意味をなさない。呼吸は極限まで引き絞られ、心拍は数分に一度まで間引かれ、意識は泥のような無の底へ沈降し続けている。それは眠りというよりも、生きたままの”停止”。
だが。
その完全なる球体の表面に、微細な歪みが走った。みし、みしみし、という音。魔法の繭を構成していた完璧な円環の理が、ほんの一瞬、不協和音を奏でた。ーー管理者の目が逸れ、外部からの供給が揺らいだのだ。
遥か頭上、地上にて繰り広げられる激闘。ソラスの膨大な魔力が、防衛と迎撃、そして怒りへと回されている。塔という巨大なシステムを維持する源が、ほんの僅かばかり、この最下層から引き剥がされた瞬間だった。
そして、その隙を”彼ら”は待っていた。繭の深奥。魔力の層のさらに奥底。停止したはずの二人の懐に、それは仕込まれていた。
奇妙な金属片。何かの骨を削った針。血で描かれた呪符の欠片。白耀剣が誇る最新鋭の対魔導装備でなければ、王都の洗練された技術体系でもない。もっと古く、泥臭く、執念深い――対魔導用の原始的な呪具。それらは清流にインクを垂らすように、純粋な魔力の流れに”淀み”を生ませるための異物だった。
封印されたその瞬間から、二人は内側で、微小な乱流を作り続けていたのだ。目立たず即効性もないが、鋼鉄に落ちる水滴のように時間をかけ、確実に結界の構造強度を腐食させていた。
そして今。外側からの圧力が弱まり、内側からの腐食が限界を超え、二つの好機が、針の穴を通すような確率で重なった。
パキ、パキパキッ。 繭の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。青白い光の糸がほつれて弾け飛ぶ。絶対的な”停止”が解かれる。ややあって、暗闇の中、誰かの深く息を吸い込む音がした。
「……」
最初に指が動いた。ぴくり、と痙攣にも似た動き。だがそれは、確実な覚醒の合図だった。
黒衣の男――フラスニイルの手が、自身の胸元に触れる。肺を押し潰すようだった魔力の圧が、綺麗に消え失せている。水底から水面へ顔を出した時のような、急激な解放感。
「切れた、な」
喉が渇ききった独白。パリン、と硬質な音が響き、彼を包んでいた繭の内壁が、硝子細工のように砕け散り、魔力の残滓となって虚空へ霧散した。その崩壊の振動が、隣の繭へと伝播する。
「――っ……かはっ、げほっ!」
荒い呼吸音。咳き込みながら、ユスティナが崩れ落ちるように上体を起こした。赤い髪が汗と魔力液で頬に張り付いている。彼女は目を見開き、瞬きを数回繰り返して、瞬時に状況を理解した。
封印構造の完全崩壊。拘束圧の消失。そして、床に散らばる自分たちが仕込んだ呪具の残骸。
「……おはようございます、フラスニイル」
「ああ」
「最悪の目覚めです。石になった気分だ」
ユスティナは首に手を当てつつ回し、ボキボキと骨の音を鳴らした。
「寝心地は? 銀貨いくつの価値か?」
しびれた腕をさすりながら、フラスニイルが皮肉混じりに尋ねる。ユスティナは不機嫌そうに、眉間の皺を深くした。
「銅貨一枚もありません。硬い枕に布団もなし」
「苦情は後にしておけよ」
フラスニイルの視線は、天井――遥か上層へと向けられていた。塔全体が低く唸っている。石壁に手を当てればわかる程の微振動。
「……”あれ”が効いたんですね」
「ああ。我々の仕込みが半分。残りの半分は」
二人は同時に立ち上がる。平衡感覚はまだ戻らないが、戦士の本能が身体を支えていた。
「外部魔力波。それも特大の」
ユスティナが目を細める。
「……あいつ、また一人で無茶を」
「いつものことだ。学習しない支配人様だよ」
フラスニイルは、床に置いてあった愛剣を拾い上げる。魔力を帯びない、無骨な鋼の剣。彼はそれを鞘に収めながら階段へと足をかけた。
「行くぞ。宿代を支払いにな」
二人は螺旋階段を駆け上がる。一段飛ばしで登るたびに、上から落ちてくるプレッシャーが増していく。 重くて 熱い。 肌がチリチリと焼けるような、高密度の魔力嵐。そして、外へと通じる扉を蹴り開けた瞬間――二人は、言葉を失った。
世界が、変わっていた。
村の上空が、異様な色彩に塗り替えられている。本来あるはずのない極光が空を覆い、地上では無数の氷の刃が吹雪のように舞い狂っていた。
対するは、整然と並ぶ銀の壁――王国騎士団。だが、その強固な陣形すら、今は嵐の中の小船のように頼りなく見える。根と石と氷が、鉄の規律と真正面から衝突し、悲鳴を上げている光景。
「……これは……」
ユスティナの声が、乾いた笑いと共に漏れた。
「間に合ってませんね」
これほどの規模になれば、止める術などない。そう言いたげなユスティナの横で、フラスニイルは剣の柄を強く握りしめた。
「いや。間に合うかどうかは、これからだ」
尖塔の長い影が、村へと伸びている。その影の先、暴風の中心に、小さな人影が見えた。孤独で、傲慢で、そして痛々しいほどに儚い少女。ソラスが、まだ一人で立っていた。