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「お父様!」
珠子は、空々しい声をあげて、店へ飛び込んだ。
「あ、お嬢様!旦那様は、商談中で……」
店の手代《てだい》が、恐る恐る言う。
「そう、じゃ、あなた、人力を呼んでくれる?」
父親の前で、ひと芝居打とうと目論んでいたのに、とんだ拍子抜けだと、珠子は膨れっ面になる。
女学校の前で、文を差し出された。どうすれば良いのかわからず、逃げて来た。
と、聞けば、父、圭助のこと。学校まで、男達が押しかけてくるのかと、珠子の身の安全を心配するはず。
父の心をもっと、掴んでおかねば。ただ、それだけの思いだったのだが、あてが外れた。
まあ、仕方ない。父が帰宅したら、母と共に芝居を打てば良いだろうと、珠子が思っていた矢先、人力車がやって来た。
「珠子は無事に帰って来ましたと、お父様にお伝えしてちょうだい」
噛みついて来るかのような口振りに、店の者達は、これは機嫌が悪いと震え上がった。
「は、はい、お嬢様、確かにお伝えしますので……」
頼んだわよ、と、言い捨てて、珠子は人力車に乗り込む。
店の者達は、見送りに出た。ここで、機嫌を損ねると、母、勝代がししゃり出て来て、あることないこと圭助に言いつける。
もはや、勝代の言いなりになっている圭助は、その言葉を真に受け、店の者に非があると、珠子可愛さから、なんらかの処罰を与える。
それが、珠子が物心ついた頃からの柳原の店の習慣になっていた。
店と同じく、日本橋にある女学校へ、珠子が通うようになってからは、その歪んだ溺愛に拍車がかかっていた。
珠子が、尊い。ではなく、珠子の告げ口が、恐ろしいと、店の者達は常に低姿勢で、柳原家のお嬢様に接していたのだ。
そんな余計な事に気を取られすぎてか、お屋敷には、もう一人、お嬢様がいるということを、皆、忘れていたのだった。
お気をつけて。と、深々頭を下げて珠子が乗る人力車を見送る面々を、道に停めている車から、物珍しそうに眺めている者がいる。
どこか軽薄そうな、洋装姿の中年男が、車内の後部座でふんぞり返っていた。
「ふぅーん、あれが、柳原の珠子か。なかなか、気が強そうな娘だな。手応えがありそうだ……」
品定め、であるのだろう。珠子を追う男の視線は、じっとりとした嫌な物だった。
そして……。
賑かな往来が、一面桑畑へと変わった頃、金原は、櫻子を労った。
「……無理をさせたか?」
「い、いえ!」
「もうすぐ、着く。帰ったら休め」
言うと、やっと、櫻子の手を解放してくれた。が、その代わりに、のぼせた後、動きすぎたなと、呟き、櫻子の体を抱き寄せた。
「……遠慮するな。俺に寄りかかっておけ。もう、人混みどころか、人もいない。人目を気にしなくてもいいだろう。湯あたりされて、寝込まれても面倒だ」
楽にしろと、言うことらしい。ただ、妙に言い訳がましいことばかり言う金原に、櫻子は、ふと思う。
もしかしたら、金原も、余裕がないのかも……と。
「……あの、私が、寄りかかると、旦那様もお疲れになります」
恥ずかしかった事もあり、櫻子は、なんとか、金原の言いつけから逃れようとした。
櫻子の言い分に、金原は反論しようとしたが、虎の一声により、引かざるを得なくなる。
「いや、もう、着きましたから、奥様、お部屋で早く横になってください!」
確かに。櫻子にとっては、まだ、見覚えがあるという程度の、金原の屋敷に到着していた。
虎も、流石に心配している。何しろ、櫻子は、のぼせた後、直ぐ出かけているのだ。そして、後味の悪い出来事もあった。
「……妹のことは、心配するな。気にすることは、何もない」
「はい」
と、金原へ答えながら、虎の用意した踏み台を使って人力車を降りる櫻子だったが、その珠子への尋常でない金原の思いが、櫻子は、恐ろしかった。
まさか、銃《ピストル》を。
いや、流石にそれはないだろう。金原にも、分別はある。
……あるの……だろうか?
鬼と、呼ばれるぐらいだ。そして、珠子へ当て付けよろしく見せつけ、潰すと、とまで言った。
櫻子の不安を知ってか知らずか、金原は、さっと玄関のガラス戸を開けると、今帰ったと、叫んでいた。
「お浜!龍!」
しかし、誰からも返事はない。
「あー、あいつら、酔いつぶれてるな……まったく。まだ日が高いというのに」
呆れながら、金原は、靴を脱ぐと、廊下を歩んで行く。
「休んでろ」
その一言を、櫻子へ言い残して。
と。
ああ!と、金原が叫んだ。
「しまった!ドレスだ!ドレスの用意!ああ!せっかく街へ行ったのに!店に立ち寄ればよかったな」
「……ドレスとは……?」
金原の乱れように、櫻子は、思わず尋ねていた。
用意をしなければならない。招待されている。夫婦同伴。と、聞いていたが、櫻子には、今一つ実感のわかないものだった。なにより、何に、招待されているのだろう。そして、どうして、ドレスなのだろう。色々と疑問が残る。
「ああ、ハリソン経由で、旧居留地の集いに参加する。まあ、顔見せというところだ。小さいながらも、奴らの社会の縮図というかな、社交界とやらへ呼ばれているんだ」
「社交界ですか!」
深くは知らないが、何かの物語で読んだ事がある。貴族が集まる、派閥のようなもののはずだ。爵位がない櫻子が、足を踏み入れる事は、可能なのだろうか。
少し、足が震えた。どなたかのお宅へお伺いするものだと思っていたら、雲の上の世界へ出向く事になっていたとは。
「あ、あの、五つ紋の着物とかの方が、失礼にならないのでは?」
おろおろしながら、櫻子は言うが、金原は、静かに返して来た。
「まあ、着物の格では最上級だろうが、どう、格付けしようがな、奴等は、着物を、まだ、野蛮だと思ってるんだ。だから、西洋人と会うには、洋装でなければ、相手にされない」
「そんな……野蛮だなんて……」
櫻子の知らない世界が、金原によって、語られる。
珠子の事よりも、よっぽど重大なのではと、櫻子は青ざめた。
「だから、ドレスが必要なのだが……まだ、時間はある。心配するな」
金原は、軽く言うと、おーい!と、屋敷の皆を呼んだ。が、変わらず、返事はなかった。