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#恋愛
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読み終わりました……この第8話、本当に好きです。 「光に癖がある」――その発想と、それを三人が「似てる」と口にした瞬間の空気感が、もう胸に迫るものがありました。昼の光は避けるもの、敵でしかなかったのに、机の上の細い線がそれを夜の耳で捉え直そうとする。ラジカセを抱えたナミオの、まだ鳴っていない静けさの中に、何かが始まる予感だけが確かに立っている。老爺の「名前が遅い方がちゃんと残る」という言葉も沁みました。この章の静かな熱量、とても好きです。次が待ち遠しいです。
第8話 光の研究者
ハジメの部屋は、いつも少しだけ朝みたいな匂いがした。
地下の夜しか知らない通路の中で、そこだけは乾いた布と熱を失った鉄と、磨かれた板のにおいが重なっている。寝床の湿りとも、食堂の塩気とも違う。何かを長く見続けた部屋の匂いだった。
ナミオは戸口の前で一度立ち止まり、ラジカセを胸へ押しつけた。
中では、細い金具が小さく触れ合う音がしている。
「入れ」
ハジメの声がした。
ナミオは布をめくる。
部屋は狭いのに、机だけが妙に広く見える。机の上には薄い板、鉄の枠、小さな穴の空いた板片、煤けたガラス片、曲がった針、何に使うのかすぐにはわからない輪のようなものが並んでいる。壁には細い線が何本も引かれ、その先に小さな印がいくつも付いていた。図というより、見たものが消えないように押しつけた痕みたいだった。
ハジメは机の向こうに立っていた。
額の薄い布はいつも通りきっちり巻かれ、袖口まで閉じた作業着に細かな粉がついている。痩せているのに頼りなさはなく、むしろ余計なものが削れて残った感じがする。目は相変わらず静かだったが、今日は少しだけその奥が起きていた。
「座れ」
「椅子ない」
「床だ」
「雑」
「十分だろ」
ナミオは壁ぎわへしゃがみこんだ。
部屋の中は灯りが弱いのに、机の上だけ不思議と見える。どこかに反射を集めているのかもしれない。ハジメはそういうことを平気な顔でやる。
しばらく、何も言わない時間が続いた。
ハジメは細い板の上に置いた針を、ゆっくり指で押し戻していた。針の先は煤けた紙片みたいなものへ触れていて、少し動くたび薄い筋が残る。ナミオはその動きを見ながら、ついラジカセの角を指でなぞった。
「怒ってるか」
ハジメが聞いた。
「ちょっと」
「ちょっとで済んでるならましだ」
「済んでないかも」
「だろうな」
ハジメは否定しなかった。
それが、妙に気楽だった。
「ミツのこと?」
「ミツだけじゃない」
ナミオは壁へ背をつけた。
「でも、ミツも」
「うん」
「間違ってないのが嫌なんだよ」
ハジメの手が止まる。
「そうか」
「間違ってないから、怒りきれない」
「そういう時は、長引く」
ナミオは少し笑った。
「経験あるみたいな言い方」
「ある」
「何で」
「研究はだいたいそうだ」
ハジメは針を紙片から離し、今度は細い金具を持ち上げた。
「見つける」
「うん」
「通じる」
「うん」
「そこで、止められる」
ナミオは顔を上げた。
ハジメの目は机の上に向いている。
「止める側は、たいてい正しい理由を持ってる」
「やっぱり」
「だから厄介だ」
その言い方で、ナミオの胸の奥に残っていたざらつきが少しだけ動いた。
ハジメは机の端から、薄い板を一枚取り出した。
煤けた灰色の表面に、細い線が何本も刻まれている。まっすぐではない。短いもの、長いもの、途中で跳ねるもの、急に途切れるもの。その並びは、どこかで見た気がした。
「これ」
ナミオが身を乗り出す。
「何」
「昨日の夜の」
ハジメが板を傾ける。
「針の動き」
ナミオは目を細めた。
「音の」
「音じゃない」
ハジメが言う。
「光だ」
一瞬、言葉の意味が胸へ落ちるのが遅れた。
ナミオは板へもう少し顔を寄せる。
「光って」
「昨日、赤い雨の残りを戸の継ぎ目から少しだけ拾った」
「拾った?」
「当たる前の揺れを見た」
ナミオはよくわからないまま、板の線を追う。
長い。
短い。
長い。
途中で細かく震えている。
また長い。
どこかで見たことがある。
いや、見たのではない。
聞いた形に似ている。
耳の奥が先にざわつく。
「……待って」
ナミオは思わず言った。
「これ、何か」
「似てるか」
ハジメが先に言った。
ナミオは板から目を離せなかった。
「似てる」
「何に」
「俺の」
喉が少し乾く。
「意味のない信号」
ハジメはようやく頷いた。
「そう見えた」
部屋の空気が少し変わる。
狭いはずなのに、急に何か大きいものが入ってきた気がした。ナミオは膝を少し引き寄せ、ラジカセを抱えたまま板を見た。
長い。
短い。
長い。
揺れ。
短い、短い。
完全に同じではない。
でも、似ている。
似ているというより、似た呼吸をしている。
「昨日の音荒れ」
ナミオが言う。
「赤い雨の夜の」
「うん」
「それと」
「たぶん、別々じゃない」
ハジメの声は低い。
「少なくとも、そう考えた方が筋が通る」
ナミオは思わず笑いそうになった。
嬉しいわけでもない。
怖いわけでもない。
ただ、何かが急に繋がりすぎて、頬の内側が変に熱くなる。
「筋、通っちゃうの」
「通る時は、だいたい嫌な方へ伸びる」
「そんなこと言うなよ」
「言っておく」
ハジメは別の板も出した。
今度はもっと短い線が並んでいる。
ひとつひとつが細く、間も不揃いだ。
でも、ところどころで妙に強く跳ねていた。
「これは何」
「戸の継ぎ目から入った光を、煤けたガラスに落として見た」
「見た?」
「揺らぎがある」
「光に」
「ある」
ナミオは言葉を失いかけた。
光。
それは地上にあって、赤い砂と合えば肌を泥にするものだ。
昼を捨てさせたものだ。
人を倒し、世界を焼き、動物を少なくしたものだ。
それが、揺らぐ。
しかも、ただ揺らぐだけじゃない。
規則がある。
「……ずっと?」
「昨日の夜は、特に」
「赤い雨のあと」
「うん」
ハジメは薄い板を机へ戻す。
「雨の夜だけ、電波が荒れた」
「うん」
「雨のあとだけ、戸の継ぎ目から見た揺れが細かくなった」
ナミオはラジカセを抱く指へ力を入れる。
「じゃあ、赤い砂が」
「光に触ってる」
「音にも」
「たぶん」
その「たぶん」は軽くなかった。
ハジメは軽くないたぶんしか言わない。
部屋の外を誰かが通る足音がした。
すぐ消える。
地下のいつもの夜だ。
なのに、机の上の細い線のせいで、その足音まで別の規則に思えてくる。
ナミオは板を見たまま呟く。
「光って、しゃべるのかな」
ハジメはすぐには答えない。
窓もない部屋の中で、弱い灯りが机の端にだけ集まっている。その灯りの縁を見ながら、やがて言う。
「しゃべる、は早い」
「じゃあ」
「癖はある」
「癖」
「揺らぎ方の」
ハジメは指先で長い線をなぞる。
「ただまっすぐなものなら、こんな残り方はしない」
ナミオはその指先を見る。
細かな古い傷。
研究の手だ。
物を掴むためじゃなく、見落とさないために削れた手。
「音と似てるの、ミツには言った?」
ハジメは少しだけ首を傾けた。
「まだ」
「なんで」
「先におまえへ見せたかった」
ナミオは顔を上げた。
「なんで俺」
「おまえの耳の方が先に似てると言うと思った」
それは少しだけ、嬉しい言い方だった。
部屋の外でまた足音がした。
今度は止まる。
布の戸が少しだけ揺れて、ユラの顔がのぞく。
「いると思った」
長い袖の中へ手をしまったまま、目だけが起きている。
「何してるの」
「見てる」
ナミオが答える。
「何を」
「光」
ユラが一度まばたきをして、それから少しだけ部屋へ入った。
「光って、見るものじゃん」
「そうなんだけど」
「そうじゃないの?」
ナミオは板を指した。
「これ」
ユラがしゃがみこむ。
肩でそろえた髪が前へ落ちる。
目の下に薄い影があるのに、その目だけは先に光る。
「線」
「うん」
「音みたい」
ナミオとハジメが同時にそちらを見た。
ユラは少し驚いた顔をした。
「何」
「おまえもそう見える?」
「見えるっていうか」
ユラは板へ指を伸ばしかけて、触れずに止めた。
「音の時の、長いのと短いの、あれに似てる」
ナミオは息を吐いた。
自分だけじゃなかった。
ハジメだけでもない。
ユラも同じところへ引っかかった。
「ほら」
ナミオが言う。
「似てる」
ハジメは大きく頷きはしない。
でも、目の奥だけが少しだけ深くなった。
「三人か」
その数え方で、急に現実味が出る。
一人の思い込みではない。
偶然の重なりでもなくなる。
三人が似ていると言ったなら、それはもう、ただの言いがかりではいられない。
「ミツ呼ぶ?」
ユラが聞く。
ハジメは少し考え、頷いた。
「呼んでこい」
ユラはすぐ立ち上がる。
「行ってくる」
足音が遠ざかる。
部屋の中に残るのは、薄い灯りと机の上の線と、ナミオの早くなった呼吸だけだ。
「これってさ」
ナミオが言う。
「音にできるかな」
ハジメは視線を板から外さない。
「できる」
「ほんとに」
「たぶん」
「またたぶん」
「今度のたぶんは前より濃い」
その言い方がおかしくて、ナミオは少しだけ笑った。
「濃いたぶんって何だよ」
「薄くないってことだ」
「雑」
「おまえが言うな」
それで少しだけ空気がほどける。
けれど、机の上の線は消えない。
長い。
短い。
揺れ。
跳ね。
途切れ。
光の揺らぎに規則がある。
そのことが、部屋の狭さよりずっと大きくそこにあった。
ミツはすぐ来た。
布の戸を上げて入ってくる時の動きまで無駄がない。細い体のまま一本の線みたいに立ち、こめかみの短い毛がわずかに浮く。喉の近くの小さな泥化跡が、呼吸で浅く揺れる。
「何」
短い。
ハジメは何も言わず、板を向けた。
ミツは近づき、目を細める。
人の顔より先に板や針の揺れを見る目だ。
そのまま数秒、何も言わない。
「……これ」
「昨日の」
ハジメが答える。
「赤い雨のあとに拾った揺れ」
ミツの指が喉元へ一度触れる。
考える時の癖だ。
「音に似てる」
ユラが先に言う。
ミツはすぐには頷かない。
頷かないが、否定もしない。
板を見る。
もう一枚を見る。
さらに机の端の細い記録板を見て、そこでやっと小さく息を吐いた。
「似てる」
ナミオの胸が少しだけ強く鳴る。
ミツは続ける。
「少なくとも、揺れの長短がある」
「規則?」
ナミオが聞く。
「規則と呼びたいなら、もっと要る」
厳しい言い方だった。
けれど、可能性を切った言い方ではない。
ハジメがもう一枚、別の板を出す。
「これは昨日の通信の荒れ」
ミツがそれを手に取る。
「……似せてるわけじゃないのに」
「似てる」
ユラがまた言う。
ミツは板を重ねる。
細い線が、違う板の上で少しだけ呼応する。
「音荒れは赤い雨の夜だけ」
「今のところは」
ハジメが答える。
「光の揺れは」
「昨日の戸の継ぎ目では見えた」
ミツは少しだけ目を閉じた。
その顔に、通信板を前にした時とは違う迷いが出る。
秩序を守る顔ではなく、見てしまったものをどう扱うか決めきれない顔だ。
「これ、板に残す」
「残せよ」
ナミオがすぐ言う。
ミツは目を開ける。
「残す。でも、通信板とは別」
「なんで」
「同じ板に乗せると、意味が早すぎる」
ハジメが低く笑った。
「珍しくいい言い方するな」
「うるさい」
ミツは短く返す。
でも、その頬の線は少しだけやわらいでいた。
ナミオは板を見ながら言う。
「光も、形あるんだな」
「ある」
ハジメが答える。
「少なくとも、まっすぐではない」
「音みたいに」
「似てる」
「じゃあ」
ナミオはラジカセを抱えたまま、少し前へ乗り出す。
「光の揺れを音にしたら」
部屋が静かになった。
誰もすぐには口を開かない。
その発想は雑なのに、雑なまま捨てるには惜しい形をしていた。
ユラが先に言う。
「聞いてみたい」
ミツは小さく息を吐く。
「私も」
それが少し意外で、ナミオはそちらを見る。
ミツは板を重ね直しながら、視線を上げなかった。
「聞けるなら、だけど」
ハジメが机の上の金具を寄せる。
「できる」
「ほんとに」
ナミオがまた聞く。
「今度はもっと濃い」
「それ表現としてだめだろ」
ユラが笑い、ナミオもつられて笑った。
部屋の中の熱が少しだけ動く。
見つかったものが、まだ名前になりきっていないうちの熱だ。
ハジメは机の端から細い輪を取り、ラジカセの横に置いた。
「これに通せば、揺れを拾えるかもしれない」
「これ何」
「光の弱い反射を拾うための枠」
「見た目、ただの輪じゃん」
「だいたい最初はそうだ」
ナミオは輪を持ち上げる。
軽い。
軽いのに、どこかで使い道だけは先に決まっている形をしている。
「今日やる?」
「今日は準備だけ」
ハジメが答える。
「焦ると壊す」
「焦らなくても壊す時ある」
ミツが言う。
「それはそう」
ナミオは素直に頷いた。
部屋の外で、遠くの食堂から鍋を叩く音がした。
夜の食事の合図だ。
いつもなら腹の方が先に反応するのに、今日は耳の方がまだ机の上へ残っている。
長い。
短い。
揺れ。
跳ね。
光は昼のものだと思っていた。
昼にあって、避けるしかないものだと。
なのに今、その昼の側に、夜の耳が引っかかっている。
「キリに伝える?」
ユラが聞く。
ミツが少し考える。
「まだ早い」
「でも」
「まだ形だけ」
「向こう、形聞くじゃん」
ミツは喉元へ指を当てる。
「だからこそ、雑に投げたくない」
その言い方には、前より少し違う重さがあった。
止めるだけではない。
守るだけでもない。
壊さずに渡す方を考え始めている顔だった。
ナミオはそれを見て、胸の奥に残っていた昨日のざらつきが少しだけほどけるのを感じた。
完全には消えない。
でも、別の場所へ移っていく。
消される電波。
守られる秩序。
その横で、まだ誰のものでもない光の揺れが板の上へ残る。
食堂へ向かう途中、通路の灯りがいつもより少しだけ明るく感じた。
実際には変わっていないのに、ナミオの目の方が何かを先に拾っている。
ユラが横で言う。
「昼のものって、全部敵だと思ってた」
「俺も」
「でも、揺れてるんだね」
「うん」
「変なの」
「変」
二人で小さく笑う。
食堂ではカザンが鍋をかき回していた。
首の太い影が壁へ落ち、鼻筋の横の浅い傷だけが先に動く。
「遅い」
「研究してた」
ナミオが言うと、トウヤが椅子の上で体を起こす。
「また変なこと見つけた顔してる」
「見つけた」
「何」
ナミオはラジカセと輪を持ち上げた。
「光」
トウヤがしばらく黙り、それから顔をしかめた。
「おまえ、とうとう昼と喋り始めたのか」
食堂の何人かが笑った。
けれど、完全な冗談としては笑えない感じが残る。
ハジメとミツも遅れて入る。
ハジメはいつも通り静かで、ミツは板を抱えたまま考えごとの線をまだ口もとに残している。
カザンが皿を並べながら聞く。
「で、何だよ光って」
ハジメが答える。
「揺れてる」
「は?」
「規則がありそうだ」
「光に?」
「ありそうだ」
トウヤが笑いかけ、途中でやめた。
「……そんな顔されると、笑えねえ」
ユラが先に皿を受け取りながら言う。
「音みたいなんだって」
その一言で、食堂の空気がまた少し変わる。
音みたい。
それはこの拠点では、もう完全に無視できない言葉になりつつあった。
ナミオは鍋の湯気を見ながら、昼の光を思った。
赤い砂と合わさって肌を泥へ寄せるもの。
避けるしかないもの。
誰も見ようとしないもの。
それが、夜の部屋の机の上で、板の線になっていた。
「明日、聞けるの」
トウヤが聞く。
「うまくいけば」
ハジメが答える。
「うまくいかなかったら」
「また考える」
カザンが短く息を吐く。
「研究者っていいよな。考えるで続く」
「労働者は違うの」
ユラが聞く。
「回すで続く」
それで、少しだけ笑いが戻る。
ナミオは皿を受け取る。
湯気は細い。
保存食の塩気はいつも通り強い。
でも今日は、そのいつも通りが妙にありがたい。
大きすぎるものを見た夜ほど、鍋の中身は変わらない方がいい。
食べながらも、頭のどこかでは板の線が動いている。
長い。
短い。
揺れ。
跳ね。
それはまだ意味ではない。
意味にした途端、何かをこぼしそうな形だ。
でも、音と似ている。
それだけで十分すぎるほどだった。
食後、ナミオは老爺の部屋へ寄った。
布の戸をめくると、熱と油のにおいが迎える。
老爺は起きていた。
膝に鳴らないラジカセを置き、指先で表面の古い傷をなぞっている。
「今日は顔が早いな」
「見つけた」
「ほう」
「光」
老爺は一度まばたきをしただけだった。
ナミオは床へ座り、机の板の線を思い出しながら話した。
赤い雨のあと。
戸の継ぎ目。
揺れ。
長短。
音みたいな形。
似ていると言った三人のこと。
聞けるかもしれないこと。
話し終えるまで、老爺は口を挟まなかった。
やがて、膝のラジカセを軽く叩く。
「上も鳴ってるか」
「鳴ってるっていうか、まだ」
「まだ名前がないか」
ナミオは頷く。
「たぶん」
「いい」
老爺は目を細めた。
「名前が遅い方が、ちゃんと残る時もある」
ナミオはその言葉を胸の中へ置いた。
名前が遅い方がいい。
すぐ意味にしない方がいい。
ミツが別の板へ残すと言ったのも、たぶん同じことだ。
部屋を出たあと、ナミオは見張り小屋の下まで歩いた。
地上への戸は閉じたまま。
赤い砂は向こうに残っている。
昼の光も、泥化も、全部その先だ。
でも今夜は、怖さの形が少し違っていた。
ただ避けるだけだったものに、揺れがある。
規則があるかもしれない。
音と似ている。
聞けるかもしれない。
ラジカセを胸へ抱く。
もし聞けたら、何に聞こえるだろう。
歌ではない。
呼ぶ前。
まだ誰のものでもない。
キリがそう返した音の手前に、もしかしたら光も並ぶのかもしれない。
ナミオは目を閉じた。
耳の奥で、まだ何も鳴っていない。
なのに、何かが来る前の静けさだけがはっきりしている。
昼のものへ、夜の耳が届こうとしている。
そのことが、赤い砂の世界の輪郭を少しだけずらしていた。