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第9話 届いた音
音が届いた夜の前に、
まず噂が届いた。
噂はいつも短い。
けれど、短いくせに歩くのが速い。
発信室の前でカザンが輪の軸を拭いていた時、
壁にもたれていたトウヤが眠そうな声で言った。
「ロピが、あれ歌って言ったらしい」
カザンは布を止めた。
「また半分歌か」
「半分じゃなくて、歌」
「誰が言った」
「ミツが板見てた」
発信室の戸はまだ閉じている。
中から紙の擦れるような音がする。
ミツが通信板を繰っているのだろう。
ナミオはその会話を通路の角で聞いた。
ラジカセを胸に抱えたまま、
一歩、進むのを止める。
歌。
半分歌ではなく。
意味のない信号でもなく。
異常音でもなく。
歌。
胸の奥で何かが小さく鳴った。
うれしいのに、すぐにうれしいとは言い切れない鳴り方だった。
「ほんとかよ」
カザンが低く言う。
「さあ」
トウヤは肩をすくめる。
「でも、昨日ミツが板の端ずっと見てたから」
「板の端って、だいたい面倒なとこだな」
「だな」
ナミオはそこでやっと足を出した。
二人がこちらを見る。
カザンは鼻筋の横の浅い傷だけ先に動かし、トウヤは眠そうな目を少しだけ開いた。
「おはよう、歌の人」
トウヤが言う。
「やめろよ」
「じゃあ何だよ」
「……まだわかんないだろ」
カザンが布を置いた。
「わかんないままでも、向こうで呼び方変わる時あるからな」
「それ、雑すぎる」
「雑でも広がるもんは広がる」
発信室の戸がそこで開いた。
ミツが出てくる。
細い体のまま一本の線みたいに立ち、こめかみの短い毛が灯りに少し浮く。喉の近くの小さな泥化の跡が、息をするたび浅く動く。
通信板を抱えたまま、ナミオを一度見た。
「来たなら入る」
それだけ言って、先に中へ戻る。
ナミオはカザンとトウヤを見た。
「ほんと?」
トウヤが顎をしゃくる。
「聞けよ」
発信室へ入ると、空気がいつもより静かだった。
静かというより、文字の多い静けさだ。
ハジメが壁際で針を見ている。
ユラは戸口の近くに立ち、長い袖の中へ手をしまっている。
ミツは机の前で板を開き、端へ刻まれた小さな字を追っていた。
ナミオが近づくと、ミツは板をそのまま机へ置いた。
「読む?」
「いいの」
「いいわけじゃないけど、どうせ聞くでしょ」
「聞く」
「じゃあ読んで」
板の端はいつもの報告より字が細かい。
急いで刻いたのか、ところどころ浅くなっている。
ロピより私語あり。
前夜の異常件につき、
あれは歌に近いではなく、
歌として記憶されるとの返答。
作業者の間で再唱あり。
意味より先に抑揚が残るとのこと。
ナミオは板に顔を近づけたまま、しばらく動けなかった。
再唱。
向こうで。
自分の拠点ではない場所で。
見たことのない人たちが。
ロピの冷たい空気の下で。
「……歌って、覚えられたのか」
「そういうことになる」
ミツは短く言う。
「でも完全に同じじゃない」
「何が」
「向こうで少し変わった」
ハジメが壁際から言った。
「それでも歌として残ったなら、もう十分だろ」
ナミオは板から目を上げた。
「変わったって」
ミツが別の端を指で押さえる。
「ロピの返しでは、高いところが少し削れてる」
ユラが目を丸くする。
「削れても歌なんだ」
「たぶん、そこが歌なんでしょ」
ミツが言う。
「全部揃ってなくても、残るやつ」
トウヤが小さく笑う。
「それ、いつもの話と逆じゃん」
ナミオは振り向く。
「何が」
「話は削れると消えるけど、歌は削れても歌」
その言い方が、妙に腑に落ちた。
動く階段の話は、翌日には端っこから欠ける。
冷たい飲み物の箱も、顔を見ながら話す板も、細かなところはすぐ薄くなる。
でも歌は違う。
途中だけでも残る。
削れても、まだ歌の形をしている。
「他は」
ナミオが聞く。
ミツは板をめくる。
「大中国はまだ様子見」
「様子見って」
「誤信号扱いではなくなった」
「それ、でかいな」
カザンが低く言う。
ミツは頷く。
「前は異常の欄に入ってた」
「今は?」
「保留」
トウヤが笑う。
「進歩したのかしてないのか」
「進歩してるでしょ」
ユラが返す。
「異常じゃなくなったんだから」
ハジメは針から目を離さずに言った。
「誤解が変わったってことだ」
その一言で、発信室の空気が少しだけ広がる。
誤解が変わる。
それまでは、暗号かもしれない、命令かもしれない、故障かもしれない、そういう方向へ曲がっていたものが、いまは歌かもしれないへ動いている。
正解かどうかは、まだわからない。
でも、怖がり方の形が変わった。
ナミオは机の端へ指を置いた。
「自治区は」
ミツの指が一度だけ止まる。
「聞いてきた」
「何を」
「向こうで誰かが口ずさんでるって」
ナミオは息を吸った。
「キリが?」
「キリか、別の誰かかまではわからない」
「でも」
「口でなぞった時、歌っぽくなったって」
ユラがそこで、ほんの少しだけ笑った。
「やっぱり」
「何が」
「聞く人だったんだよ」
ナミオはその言い方を、胸の中で少し長く持った。
聞く人。
意味より先に、形を聞く人。
キリの顔はまだ知らない。
でもその耳の形だけは、もう少しずつ見えてきている気がする。
ミツは通信板を閉じる前に、もう一度だけ開いた。
「アメリカは」
「うん」
「歌とはまだ言ってない」
「何て」
「反復音」
トウヤが吹き出す。
「固いな」
「アメリカっぽい」
カザンが笑う。
「でも、暗号とか故障よりはまし」
「それはそう」
ミツは板を閉じ、爪の短い指で端を軽く叩いた。
「ロピは歌」
「自治区は口ずさみ」
「大中国は保留」
「アメリカは反復音」
「中東は」
そこで一拍、間を置く。
「中東は、音として安定したと書いてる」
ハジメの目が、針からほんの少しだけ上がった。
「安定した、か」
「どういう意味」
ナミオが聞く。
「向こうで受け取った時、崩れずに形が残ったってこと」
ハジメは静かに言う。
「研究者の言い方だな」
「いい言い方?」
「悪くない」
ナミオは小さく笑った。
同じものが、拠点ごとに違う名前で呼ばれる。
歌。
反復音。
安定した音。
口ずさみ。
保留。
ばらばらなのに、前より遠くなっていない。
むしろ少しずつ近づいている感じがする。
「今日は普通に通信できる?」
カザンが腕を回しながら聞く。
「できる」
ミツが答える。
「ただ、私語が増えるかもしれない」
「また面倒だな」
「面倒だけど、昨日までよりはまし」
ナミオはそれを聞いて、ラジカセを抱え直した。
昨日までよりはまし。
そうかもしれない。
少なくとも、送った音はもう、ただ消されるだけの場所には戻っていない。
発電輪が回り始める。
床の震え。
針の立ち上がり。
送受信台の乾いた音。
いつも通りの始まり。
でも、今日はその「いつも通り」の中へ、昨日までと違う期待が細く混じっていた。
最初の応答はアメリカ。
発電、維持。
外壁、良好。
耳、平常。
そこで一拍。
ミツの目が板に落ちる。
続く私語。
反復音、作業時に邪魔しない。
トウヤが輪を回しながら低く笑う。
「褒めてんのかそれ」
「たぶん」
カザンが肩を動かす。
「たぶん、向こうなりに」
ミツは口もとをほとんど動かさず、短く返す。
こちらでも同様。
それだけで終わらせる。
次は大中国。
地下熱、上昇。
収穫、維持。
人員、異常なし。
そのあと、前より少し柔らかい間が来る。
件の音、
一部の者は歌と判断。
一部は保留。
ナミオの胸の奥で、何かがゆっくりほどける。
一部でもいい。
歌と判断された。
異常ではなく。
命令でもなく。
攻撃でもなく。
ミツが返す。
こちらも同様。
その返しの短さが、今夜は少しだけやさしかった。
ロピは最初から少し明るい打ち方だった。
風、弱い。
星、見える。
外壁、維持。
そしてすぐ来る。
例の歌、
若い作業者が覚え始めた。
トウヤが今度はほんとうに笑った。
「広がってんじゃん」
カザンも鼻で笑う。
「若いやつ、どこも同じだな」
ロピからさらに来る。
意味がなくても、
手が覚える。
ユラが長い袖の中で指を握る。
「それ、いいな」
ナミオは返事ができなかった。
意味がなくても、手が覚える。
歌というより、もう体に近い。
労働の合間、無意識に机を叩いたり、缶のふちを指で鳴らしたりするような、あの覚え方だ。
中東はいつもより短かった。
観測、継続。
光、揺れあり。
件の音、再現性あり。
ハジメがそこで静かに目を閉じる。
研究者の返事だ。
歌とは言わない。
でも、消しもしない。
ミツが返す。
こちらも揺れ確認。
そのやり取りの短さが、かえって濃い。
最後に自治区。
間は少し長い。
けれど、今夜の間は昨日までのものと違う。
待たされている感じではなく、向こうがどんな顔で打とうか迷っている感じがあった。
ようやく返る。
現在地、伏せる。
中継、可能。
耳、今日も無事。
トウヤがまた笑う。
「耳好きだな」
ナミオは笑えなかった。
次が来る気がしたからだ。
そして来る。
昨日の形、
一人が口ずさんだ。
発信室の空気が少し揺れる。
「一人」
ユラが小さく言う。
自治区から続く。
音程は違う。
でも、まだ歌だった。
ナミオは思わず目を閉じた。
誰かが。
自治区のどこかで。
歩いている途中か、止まれる場所を見つけたあとか、受信具を膝へ置いたままか。
その短い形を、口でなぞった。
音程は違う。
それでも、まだ歌だった。
「……届いてる」
ナミオが呟く。
それは誰に向けた声でもなかった。
ミツが一度だけナミオを見た。
止める目ではない。
見届ける目だった。
ミツは返す。
こちらでも歌として残り始めた。
自治区から返る。
なら、もう誤解じゃないかも。
発信室がしんとする。
その一文は軽く置かれたのに、ひどく残った。
誤解じゃないかも。
最初は暗号。
次に異常。
意味のない信号。
半分歌。
歌に近い。
歌。
口ずさみ。
反復音。
安定した音。
名前が少しずつ変わっていく。
怖がり方が変わる。
扱い方が変わる。
そして、誤解そのものが、少しやわらかいものへ変わっていく。
ナミオはラジカセを抱えたまま、息をゆっくり吐いた。
ミツは板の端へ新しく刻む。
他拠点にて件の音を音楽として認識し始める。
誤認の変化あり。
ハジメがその手元を見て、低く言う。
「誤認じゃなくなる日が来るかもな」
ミツはすぐには答えない。
でも、否定もしなかった。
通信が終わるまでの残りは、いつもより短く感じた。
水位。
輪。
地下菜。
川面。
風。
病人。
必要な言葉が行き来する。
そのあいだにも、今日のやり取りだけが耳の奥で別の色を持っていた。
通信が終わる。
針が伏せる。
輪が止まる。
静かになった発信室で、最初に笑ったのはトウヤだった。
「若いやつ、どこも勝手に歌うんだな」
カザンが肩を回す。
「意味なくても手が覚えるっての、わかる」
「おまえも?」
「ちょっとだけな」
そう言いながら、鍋を叩くみたいに輪の縁を指で軽く鳴らす。
長い。
短い、短い。
長い。
ほんの一瞬。
でも、それだけでユラが目を上げた。
「今の」
「勝手に出た」
カザンは少し照れたみたいに鼻の横をこする。
「やめろ、恥ずい」
トウヤが笑いながら真似する。
音程はない。
でも、たしかに似ている。
発信室の隅で、ミツがそれを見ていた。
止めない。
ただ、見ている。
その顔が、ナミオには昨日より少しだけ遠くなく見えた。
食堂では、今夜の話がすぐ広がった。
鍋の湯気は細い。
保存食の塩気は相変わらず強い。
地下菜は柔らかすぎる。
でも、今夜だけはそのいつもの鍋が少しだけ祝うみたいな匂いをしていた。
ユラが皿を受け取りながら言う。
「口ずさんだって、いいね」
「向こうでだろ」
トウヤが席へ座る。
「見たい」
「見えないだろ」
「だから余計に」
カザンが鍋をよそいながら、ナミオの皿へ少し多めに入れる。
「今日は一食分より上だな」
「何それ」
「届いた祝い」
「安い?」
「汁多めと豆多め」
「またそこ」
でも、いつもより多かった。
ナミオは皿を見下ろし、少しだけ笑う。
笑える。
今日はちゃんと笑える。
それだけで、昨日との違いがわかる。
ミツも少し遅れて座る。
板は脇に置いたままだ。
「誤解じゃないかも、って」
ユラが言う。
「よかったね」
ミツは皿へ目を落としたまま、小さく答える。
「まだ早い」
「でも、前よりよくない?」
「うん」
それは短いが、否定ではなかった。
ナミオが聞く。
「誤認の変化あり、って書いたんだ」
「書いた」
「なんで」
「そういう夜だったから」
ミツは喉元へ指を当てる。
「同じものを、違う拠点が違う名前で呼んで、それでも前より近づいた」
その言い方が、ひどくきれいに聞こえた。
「それを板へ残したかった」
ナミオはしばらく言葉を探し、それからやっと言う。
「ありがとう」
ミツは一拍遅れて頷いた。
「消したくなかったから」
その返しも、今日はやわらかい。
食事のあいだ、ナミオは何度もロピの若い作業者のことを考えた。
寒い場所で、指が少し割れていて、輪のそばか外壁の補修のあとに、無意識にあの形を口へ乗せる誰か。
自治区では、たぶんキリか、その近くの誰かが、歩きながら少し違う音程でなぞる。
大中国では、歌と判断する者と、まだ保留する者がいる。
アメリカでは、反復音だと言いながら、邪魔しないと返す者がいる。
中東では、歌とは呼ばず、安定した音として置く者がいる。
ばらばらだ。
なのに、散っていない。
意味のない信号だったものが、拠点ごとに少しずつ違う受け取られ方をして、でも前よりはっきり「ただの異常」から離れている。
食後、ナミオはラジカセを抱えて老爺の部屋へ向かった。
布の戸をめくると、熱と油の匂いが迎える。
老爺は起きていた。
膝の上のラジカセを抱く手つきは、今日も妙に丁寧だ。
「顔が軽いな」
「届いた」
ナミオは座る前に言った。
「ほう」
「他の拠点で、歌ってわかり始めた」
老爺の目が少しだけ細くなる。
ナミオは今夜の通信を話した。
ロピ。
若い作業者。
意味がなくても手が覚える。
自治区。
一人が口ずさんだ。
音程は違う。
でも、まだ歌だった。
誤解じゃないかも。
話し終えるまで、老爺は口を挟まない。
やがて、膝のラジカセの角を軽く叩く。
「遠くで変わると、ようやく本物っぽくなるな」
「本物?」
「自分の中だけじゃなくなる」
その言い方に、ナミオは頷いた。
たしかにそうだ。
自分が作ったつもりでいたものが、遠くで少しずつ形を変えながら残っていく。
もう完全に自分のものではない。
でも、消えたわけでもない。
そこが、妙にうれしい。
「誤解じゃなくなるかも」
ナミオが言う。
老爺は小さく笑った。
「誤解のまま育つものもある」
「どっちだよ」
「どっちでもいい」
老爺は目を閉じかけて、また開いた。
「残るならな」
その一言が、今夜はいちばんまっすぐだった。
部屋を出たあと、ナミオは見張り小屋の下まで歩いた。
地上への戸は閉じたまま。
赤い砂は向こうに残っている。
昼の光も、泥化も、全部その先だ。
でも今夜は、遠くの拠点の方が近かった。
ロピの冷たい空。
自治区の歩くような打音。
中東の乾いた受け止め方。
アメリカの固い言葉。
大中国の保留の間。
その全部が、耳の奥で少しずつ重なっている。
ナミオはラジカセを胸へ抱く。
歌。
半分歌。
口ずさみ。
反復音。
安定した音。
誤解じゃないかも。
どれも同じではない。
でも、それでいいのかもしれない。
誰もまったく同じようには聞かない。
同じようには残らない。
それでも、音は届いた。
届いて、向こうで歌になった。
その事実だけで、赤い砂だらけの世界の遠さが、少しだけ縮んだ気がした。
通路の向こうで灯りが一つ消える。
また一つ消える。
最後の灯りが残るあいだ、ナミオは目を閉じた。
耳の奥で、知らない誰かが少し違う音程で口ずさんでいる。
それはまだ一度も聞いたことがないのに、
はっきりと届いた音だった。
コメント
1件
みぅ🤍🥀です…この第9話、すごく良かったです。 「届いた音」っていうタイトルが、最後までじわっと響きました。 特に「音程は違う。でも、まだ歌だった」っていう一文が胸に残ってます。 誰かが遠くで口ずさんでるって知るだけで、世界の遠さが縮まる感じ、すごくわかる気がしました。 「誤解じゃないかも」って自治区から返ってきたときのナミオの静かな喜び、ちゃんと届きました🥀
#ファンタジー