放課後、教室には僅かなざわめきが残っていた。
部活へ急ぐ足音が遠くなるにつれ、静けさが音を奪っていく。
蓮司は机に広げたノートの上でペンを回し、特に意味もなく止める。
ノックが一度。
静かな音。
「どうぞ」
扉が開き、一人の女子が遠慮がちに顔を覗かせた。
制服の袖を握りしめ、不安定な視線で蓮司を見る。
「……相談、してもいい?」
「ここに来た時点でそうなんだろ」
彼女はか細い足取りで席についた。膝の上の手が震えている。
「私、幸せになっちゃいけない気がするんだ」
蓮司は少しだけ目線を向ける。
「禁止されてんの?」
「そうじゃないけど……」
彼女は唇を噛みしめた。
「みんな苦しんでるのに、私だけ笑ってたら、なんか……申し訳なくて。
楽しむことが、悪いことみたいに思えて」
声が震え、言葉の端が滲む。
「私、ちゃんと頑張れてるわけでもないのにさ。
幸せなんて求めたら、バチが当たる気がするの」
蓮司は机に肘をつき、顎を乗せる。
大げさに悩む様子もなく。
「幸せって、許可制じゃないだろ」
彼女は瞬きする。
意味を掴み損ねたような、戸惑い。
蓮司は続けた。
「他人が不幸だから、お前も不幸じゃなきゃダメってことか?」
「……そういうわけじゃ……」
「じゃあ、自分で勝手に制限してるだけじゃん。
誰も止めてないのに」
彼女は俯く。
指先がぎゅっと絡んだ。
「……でも、怖いんだよ。
幸せを掴んでも、いつか失うかもしれないって」
蓮司は少し笑った。
「失うのが怖いってことは、ちゃんと欲しいってことだろ」
沈黙。
呼吸だけが、二人の間を行き来する。
「悪いことなんかしてねぇよ」
蓮司は淡々と告げた。
言葉には、驚くほど温度がある。
「笑うことに許しなんていらない。
苦しんでる奴の肩代わりで不幸になっても、誰も救われねぇ」
彼女の喉がかすかに鳴る。
「幸せを遠慮するほど、世界は優しくねぇよ。
欲しいなら、ちゃんと取りに行け」
窓の外では、夕闇の境目がゆっくりと沈み、人の影を長く引き伸ばしていた。
蓮司は立ち上がり、窓を少しだけ開ける。
冷たい風が吹き込み、重かった空気がゆるむ。
「幸せになるのに、罪悪感なんかいらない。
その分、誰かの不幸が減るわけじゃねぇしな」
彼女は顔を上げ、涙の跡を手で拭った。
「……そんなふうに思えたら、いいのに」
蓮司は視線を外し、椅子を軽く蹴った。
「思えなくても、とりあえず笑っとけ。
理由は後からついてくる」
その言い方は、励ましではない。
でも、背中を押す。
彼女は立ち上がり、深く頭を下げた。
息が少しだけ軽い。
ドアへ向かう背中に、蓮司は何気なく声を掛けた。
「幸せってやつは、遠慮してると置いてくぞ」
振り向かないまま、彼女は小さく頷いた。
そして扉が閉じる。
静けさが戻る。
蓮司は一人、またペンを回した。
ほんの少し、机の上の影が薄くなったように見えた。
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